渋江氏館(しぶえし)
 別称  : 府内三丁目遺跡
 分類  : 平城
 築城者: 渋江氏
 遺構  : なし
 交通  : 東武野田線岩槻駅徒歩15分または岩槻駅よりバス
       「富士見町」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           在地領主渋江氏の居館跡である。渋江氏は、武蔵七党の1つ野与党に属し、野与基永の子
          大蔵経長の子経遠にはじまるとされる。『吾妻鏡』には、建保元年(1213)に渋江五郎光衡が
          八条郷の地頭職を「安堵」されたとする記述がある。
           太田氏が岩付城を築くと(築城は成田氏説もあり)、渋江氏はその傘下に入った。大永五年
          (1525)に北条氏綱が岩付城を攻めると、渋江三郎が内応したために城は落ち、太田資頼は
          石戸城へ逃れた。そのまま渋江三郎が岩付城代となったが、享禄三年(1530)に資頼が城を
          奪還した。このときの戦いで三郎は戦死したともされるが、詳しい動向は定かでない。


       <手記>
           渋江氏館には2つの比定地があります。1つは、かつて渋江町と呼ばれた浄安寺の周辺。
          もう1つは、岩槻文化公園に隣接する府内三丁目遺跡です。
           いずれも現況遺構らしきものを目にすることはできませんが、後者には土塁跡が認められた
          そうです。今は埋め戻され、ホームセンターの駐車場となっています。とくに、第一駐車場の
          あたりがちょうど崖端にあたり、城館地形といえるでしょう。
           『日本城郭大系』では、この府内(書中では「村国」)の比定地を鋳物師集団の居住地として
          疑問視していますが、私はこちらの方が可能性は高かろうと思っています。むしろ、渋江町の
          あった浄安寺門前は近世岩槻の城下町の一画にあたり、渋江氏や渋江郷ないしその縁者に
          ちなんだ町名に過ぎないのではないかと考えています。

           
 府内三丁目遺跡付近現況。
同上。 
 
 渋江町を示す石碑。
浄安寺。 


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