石戸城(いしと)
 別称  : 天神山城
 分類  : 平山城
 築城者: 藤田八右衛門
 遺構  : 堀、土塁跡
 交通  : JR北本駅よりバス「石戸蒲ザクラ入口」下車徒歩5分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』に「扇谷上杉氏の家人八右衛門と云人居りし所なりといへり」
          とあり、扇谷上杉家臣藤田八右衛門によって15世紀後半ごろに築かれたと考えられて
          いる。おそらく、扇谷上杉氏と山内上杉氏が争った長禄の乱に伴うものと推測される。
           大永五年(1525)、北条氏綱が太田資頼の籠る岩付城を攻め落とすと、資頼は石戸城
          へ逃れたとされる。資頼は享禄三年(1530)に岩付城を奪還したが、石戸城のその後の
          扱いについては定かでない。
           資頼の子資顕は北条氏に降ったが、永禄三年(1560)に越後の長尾景虎(上杉謙信)
          が関東管領上杉憲政を擁して関東に攻め入ると、太田氏はこれに呼応した。永禄五年
          (1562)、北条氏邦が石戸城に攻め寄せた。城将は上杉家臣の毛利丹後守(北条高広
          のことか)とされるが確証はない。氏邦は三方を川や沼に囲まれた石戸城を攻めあぐね
          たが、対岸の丘から沼を渡る堤を一夜で築き、そこから攻め入って落としたと伝わる。
          戦後、城将には北条家臣依田大膳亮が任じられた。
           翌永禄六年(1563)、北条・武田軍が上杉氏の拠点である松山城を包囲し、上杉輝虎
          (謙信)は雪の三国峠を越えて救援に赴いた。しかし、石戸城に達して到着まであと1日
          というところで松山城は降伏し、その報に触れた輝虎は怒りのあまり人質に取っていた
          松山城将上杉憲勝の子をその場で切り殺したとされる。
           その後の石戸城については詳らかでない。ちなみに、『日本城郭大系』では「いしど」
          となっているが、地名の読みは「いしと」と濁らない。


       <手記>
           石戸城は、荒川が西を流れる北向きの舌状台地先端に位置しています。城の北から
          東には支脈の沢谷戸が入り込み、北麓には江戸時代に築かれた城ヶ谷堤があります。
          江戸時代以前の荒川は現在の元荒川の流路を流れていたとされ、城の西麓は市野川
          の支流和田吉野川の形成する石屋下沼があったとされています。すなわち、石戸城は
          三方を沼沢地に囲まれた要害であったということになります。
           南の付け根には天神山城の別名の由来となっている天神社があり、現地説明板に
          よれば、神社はギリギリ城外に当たるようです。城は単純な連郭式ではなく、一の郭の
          東一段下に二の郭が、一の郭の南に堀や土塁で区画された三〜五の郭がモザイク状
          に並んでいたようです。城内の大部分が宅地化されていますが、その狭間狭間によく
          見ると堀や土塁の痕跡を認めることができます。
           堤から城内を貫通して南に下る通り沿いには、石戸宿の字が残るとおり鰻の寝床状
          に家々が立ち並んでいます。おそらく江戸時代までは旧城下町が宿場として機能して
          いたのでしょう。
           石戸というと石戸蒲ザクラで有名ですが、城ヶ谷堤も桜の名所として知られています。
          というわけで花見も兼ねて訪問したのですが、車があれば圏央道桶川北本ICがすぐ
          近くにできたので、とても便利です。桜のシーズンには広々とした無料駐車場も登場し、
          ここに停めると城めぐりも容易です。桜を愛でて石戸氏館を訪ね、そこから谷戸を利用
          した北本自然観察公園へ下りると、今も残る上述の一夜堤に出ます。攻め入る北条氏
          の兵よろしく堤を渡り、今度は城ヶ谷堤の桜を眺めてからいざ石戸城内へ、というルート
          がおすすめです。

           
 石戸城説明板
一の郭の堀跡。 
 
 一の郭の堀に伴う土塁。
三の郭と五の郭の間の堀跡。 
 四の郭の堀跡。
天神社。 
 二の郭から一の郭の斜面を見上げる。
一夜堤。 
 おまけ1:城ヶ谷堤の桜。
おまけ2:旧石戸宿の家並み。 


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