四手井城(しでい) | |
別称 : 四手野井城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 四手井氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR東海道本線/京阪京津線/地下鉄東西線 山科駅徒歩20分 |
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<沿革> 土豪四手井氏の居城とされる。四手井氏の出自については明らかでない。『言継卿記』の永禄 元年(1558)七月二十四日の項に、勝軍山城の兵5、6千人が山科厨子奥の「四手野井城」周辺 を放火したとあり、この「四手野井城」が四手井城を指しているとみられている。このとき、京都を 支配していた三好長慶と、六角義賢の支援を得て帰洛を目指す将軍足利義輝の間で争いが起き ていた。『東寺百合文書』によれば、当時の城主とみられる四手井家保は三好氏の被官であった。 翻って、勝軍山城から攻めてきた兵は義輝方の兵であったものと推測される。 山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」(『京都大学人文科学研究所調査報告 第53 号』)によれば、四手井家に残る系図に、永禄十一年(1568)の織田信長と足利義昭の上洛以降 四手井氏は義昭に仕え、信長からは南山城御牧郷の管理を任されたとされる。 しかし、天正十年(1582)の山崎の戦いで四手井氏は明智光秀に与したために、戦後没落した。 その後帰農し、郷士として現在まで続いている。 <手記> 四手井城は、厨子奥矢倉町の一角にあったとされています。矢倉町の名は城に由来するものと みられ、また城跡の北には血洗町というなかなか物騒な町名もあります。城の西には旧安祥寺川 が流れ、北のやや離れたところに渋谷越えの街道(江戸時代以降の東海道)が走っています。 城跡には現在も四手井氏の居宅がありますが、城跡を示すようなものは何もありません。一応、 西側と東側はやや落ち込むような地形となっており、沖積地の先端を利用したものと推測されます。 城跡の南東には山科本願寺跡がありますが、同寺は天文元年(1532)に攻められ焼け落ちている ので、両者が併存していたかは不明です。 |
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四手井城址周辺現況。 |