島添大里城(しましーおおざと) | |
別称 : 大里城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 島添大里按司 | |
遺構 : 石垣、井戸 | |
交通 : 那覇市街から路線バス109番(大里線)に乗り、 「西原入口」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 島添大里按司の居城として築かれたとみられるが、詳しい築城年や築城者は 不明である。14世紀前半に、島添大里按司承察度は南山王を称し、英祖王統 から独立した。承察度は「うふさと(大里)」の中国語読みの当て字と考えられて おり、治世が60年ほどに及んでいることから、北山王怕尼芝(はにじ)と同じく 個人名ではなく称号とする説が有力である。 1388年ごろから、当代承察度の叔父とされる汪英紫が台頭し、いずれかの 時期に王位を簒奪したものとみられている。朝鮮の記録『李朝実録』によれば、 1398年に南山王温沙道が国を追われたとして朝鮮に亡命している。温沙道も 「うふさと」の当て字とみられ、この年までにクーデターがあったものと推測され ている。また、今日一般的には南山城(島尻大里城)が南山王国の最終的な 居城とされ、時期は定かでないが島添大里から遷ったものとみられている。 1406年、大里城の南東の佐敷按司だった尚巴志が浦添城の中山王武寧を 滅ぼし、父の尚思紹を王位に就けた。佐敷から大里を素通りして浦添へ攻め 入ることは不可能であり、島添大里城はそれ以前に尚巴志に奪取されていた とされる。『沖縄県大百科事典』などではその時期を1402年としているが、典拠 は定かでない。 尚巴志の三山統一の経緯における南山王国の扱いについては、1650年成立 の『中山世鑑』と1701年の『中山世譜』で大きく異なっている。しかし、大里城の 攻略がその野望の第一歩であった点は一致している。 『日本城郭大系』によれば、尚氏の琉球統一後も、島添大里城は「旧宮」と して存続したとされる。だが、1683年の清からの冊封使の記録には、「旧王城」 が「廃城」「遺跡」となっていたことが記されている。 <手記> 島添大里城は東に佐敷湾を望む海抜155mの山上にあります。道中の斜面 はなかなか急で、周囲からもこんもりとして目立つ山容です。それでいて頂部 はなだらかで面積があり、北西部が主城域、南西部が根小屋、南東部が祭祀 施設のミーグスク、そして北東部に集落があったようです。 城山は太平洋戦争の沖縄戦で日本軍の陣地となり、米軍の攻撃を受けて 大きく破壊されているそうです。主城域は国の史跡に指定され、そのまま保存 されていますが、山上の東半分は近年広々とした公園となり、小さな子供が 思いっきり遊べる空間として整備されています。 とはいえ主郭を中心に石塁の跡が広く残っていて、とても見応えがあります。 主郭には、東西に石積みで固められた櫓台状の高まりがあり、東が正殿跡、 西が詰の御嶽ないし拝所跡と思われます。とくに西の櫓台からの眺望がよく、 浦添城の中山王に並ばんとする野心を抱くには十分です。 主郭の1段下が二の郭とされていますが、こちらは広大な更地となっていて、 とくに遺構は認められません。現地説明板の推定復元図によれば、この空間 は石壁でいくつかの郭に分けられていたと考えられているようです。 二の郭の外、主城域への入口の脇には、「チチンガー(囲泉)」という井戸が あります。この井戸は自然湧水ではなく、8m掘り込んで作られています。水場 へ下りる石段は、きちんと成型した石材で組まれた石垣で囲まれています。 対して、主郭の石積みは自然石がごろごろ転がっているといった感じなので、 もともとはチチンガーや他の琉球の拠点城と同じく整然とした石垣が積まれて いたところ、戦争や戦後復興で表の石が割れたり持ち去られたりし、裏込め の小石などが取り残された姿なのかな、とも思いました。 ちなみに私は、島添大里が南山王国の初期の居城であったとする見解には 賛成ですが、最終的に南山城へ移ったとする説には懐疑的です。その理由に ついてはこちらで論考しているので、ご参照ください。 |
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主郭の西の櫓台状地形。拝所跡か。 | |
西の櫓台状地形の頂部。 | |
西の櫓台状地形からの眺望。 | |
西の櫓台状地形から主郭を俯瞰する。 | |
東の櫓台状地形。 | |
東の櫓台状地形頂部。 | |
主郭の説明板。 | |
主郭への登り口。 | |
二の郭のようす。 | |
チチンガー。 |