1 はじめに
2 三山鼎立と琉球統一の過程の定説
3 第一の論点:南山の都はどこか
4 第二の論点:南山王位の推移
5 第一の論点に対する私見
6 第二の論点に対する私見
6‐1 南山と中山の関係
6‐2 南山と尚巴志の関係
7 まとめ
1. はじめに
沖縄本島には、世界遺産に登録された5城をはじめ、数多くの城(グスク)跡が残っています。その多くは13〜15世紀 ごろの、グスク時代から三山時代にかけてのころに築かれました。齢三十を過ぎて初めて訪れた沖縄で、もちろん私は これらの城跡も通常の観光と並立してできる限り巡りました。 そのなかで、これまで鼎立していたとされてきた三山時代の北山・中山・南山の3王国のうち、南山王国について2つ ほど疑問が湧いてきたのです。1つは南山王の居城について、もう1つは南山王国の政治的なポジションについてです。 調べてみると、どちらもすでに議論の的になっているようですが、旧来の定説を大きく覆すような潮流にまではなって いないようでした。 そこで今回は、南山王国に関する2つの論点を整理したうえで、私の個人的意見を提起させていただこうと思います。
2. 三山鼎立と琉球統一の過程の定説
まずは、三山が成立してから尚巴志によって統一されるまでの一般的なストーリーを押さえておく必要があります。 琉球に初めて誕生した王朝は、近世琉球王国の史書である『中山世鑑』や『中山世譜』などによれば、天孫氏とされて います。天孫王統は25代続いたとされていますが、琉球開闢の神であるアマミキヨの直系子孫とされるなど神話的要素 が強く、一般にその実在を肯定する意見はごく少数です。 天孫氏に代わって1187年に王統を開いたとされる舜天は、『世鑑』と『世譜』によれば、保元の乱に敗れて配流先の 伊豆大島から脱出した源為朝の子とされています。しかし一次資料からは、舜天の出自や3代にわたる舜天王統の支配 を裏付けることができず、やはりその実在は疑問視されています。他方で、舜天王統の治世が始まる12世紀前後から、 グスク時代と呼ばれる群雄割拠の時代に移行したと考えられています。 存在が確実視されている最初の王は、浦添城を居城とした察度(さっと)といわれています。察度は1350年に舜天 王統最後の王である義本から禅譲を受け、牧港(浦添市)を交易拠点として明に朝貢を行い、琉球中山王に封じられ ました。しかし14世紀後半中には、今帰仁城の羽地按司と島添大里城(異説あり後述)の大里按司も明からそれぞれ 北山王・南山王として冊封を受け、琉球は三山時代を迎えました。
南山の初代王は承察度、北山の初代王は怕尼芝とされていますが、両者とも記録上の治世期間が数世代分に及んで いることから、どちらも個人名ではなく、承察度は「うふさと(大里)」、怕尼芝は「はにじ(羽地)」の当て字と 考えられています。 南山王国では、数代続いた南山王承察度の後に汪英紫(おうえいし)が登場します。汪英紫は先代承察度の叔父と され、一般には彼の代に承察度から汪英紫の系統への王位の移転があったものと解されています。そしてこのときに、 南山王の居城も島添大里城から南山城(島尻大里城)へ移ったという見方が有力です。李氏朝鮮の記録『李朝実録』 には、1394年に中山王察度の使者が「山南王子承察度」の送還を求め、1398年に「山南王温沙道」が中山王に追われ 亡命してきた旨が記述されているそうです。この「温沙道」についても「うふさと」の当て字とみられ、大里按司の 系統が王位を簒奪されたことの傍証と考えられています。 汪英紫の跡は子の汪応祖(おうおうそ)が継いだものの、1413年に兄の達勃期(たふち)に殺害されます。達勃期 は王を称しましたが、周囲の支持を得られず、まもなく汪応祖の子とされる他魯毎(たるまい)に誅殺されました。 この間、1406年に佐敷按司尚思紹の子尚巴志が、浦添城を攻めて中山王武寧を滅ぼしました。父の死後に中山王を 受け継いだ尚巴志は、1416年に北山王国を、次いで1429年に他魯毎の南山王国を滅ぼし、ついに琉球統一を果たした というのが定説となっています。 一見して矛盾なくストーリーがつながっているように思えますが、南山王国の実態については琉球王国の正史編纂 のころから、大きく以下の2点において議論がありました。
3. 第一の論点:南山の都はどこか
1650年に編纂された『中山世鑑』では、南山王国の居城は一貫して島添大里城にあったとされています。ただし、 佐敷城の尚巴志が浦添城へ攻め入るには、ルート上にある島添大里城を無視することはできません。そのため『世鑑』 では、島添大里城を落とした尚巴志はまず南山王を名乗り、その後で武寧を倒して父尚思紹を中山王に就けたとして います。
これに対して、18世紀前半に琉球王国の名宰相蔡温(さいおん)が編纂した『中山世譜』では、大里按司の居城は 島添大里城ではなく、初めから島尻大里城であったと変更が加えられました。これは、蔡温が1429年に南山王が明に 朝貢した記録を発見したことによる修正とされています。すなわち、浦添城を襲える時点で島添大里城は尚巴志の城 であり、その後も南山の朝貢が確認されていることから、南山王こと大里按司の大里城は島添大里城とは別のもので なければならないというわけです。つまり、今日通説とされているものは、この『世鑑』と『世譜』の折衷のような あらすじとなっているのです。 したがって、1429年時点で明が南山王国と認める勢力が存在したことは確かと思われますが、その居城が南山城 (島尻大里城)であったことや、この年に滅ぼされたことを積極的に示す証拠はありません。南山王国の都がどこに あったのかは、いまだに確定をみてはいない論点といえます。
4. 第二の論点:南山王位の推移
『世鑑』では、尚巴志は中山王になる前にまず南山王を称したとされているのに対し、『世譜』に従えば尚巴志が 南山王位に就いたことはないということになります。北山王国を攻め滅ぼした過程についてはいくらかはっきりして いるものの、尚氏と南山王国との関係については終始曖昧です。 また、数代続いたと考えられている承察度が大里按司を指している点については(島添か島尻かは別として)異論 はないものの、承察度と汪英紫の間にクーデターのような王位の移転があったのか、あったとすればどのようなもの だったかについては、多くの説が提起されています。南山王国の実態に関して直接的に示す史料は乏しく、どの説で あっても重要な部分は論理的推測に頼らざるを得ないという点が、議論の収斂を難しくしているように感じます。
5. 第一の論点に対する私見
ここからは、以上の2つの論点に対する私の個人的な見解になります。 まず、南山王国の都はどこにあったかという第一の論点については、当初は島添大里城だったものが、いずれかの 時点でどこか別の場所へ移転したとみるべきと考えます。
琉球の有力者の城は、首里城や浦添城、今帰仁城、勝連城、中城城など、比較的高い目立つ山に築かれる傾向に あるように思われます。島添大里城は知念半島から続く台地でもとりわけ高所にあり、また山容も円錐形で印象的 です。北山の今帰仁城や中山の浦添城と比肩し得る規模も有し、承察度を(島添)大里の当て字とする推測は充分 成り立つでしょう。 前述のとおり、佐敷按司の尚巴志が浦添城へ攻め入るには事前に島添大里城を手中にしている必要があります。 そのため、南山王国が1429年まで存続していたとすれば、その居城は遅くとも1406年には遷されていたことになり ます。時期については第二の論点にかかることから次項に譲るとして、私はその移転先は必ずしも島尻大里城とは 限らないのではないかと考えています。 糸満市立高嶺小学校となっているこの城跡は、今日では一般に南山城と呼びならわされていますが、これは蔡温 の説に従っているだけでそのような呼称が史料上存在したわけではありません(以下島尻大里城で統一します)。 蔡温がここを南山の都とする論拠は、この場所の地名も大里といい、琉球王国時代に島添大里に対して島尻大里と 分けて呼んでいたことにあります。逆にいうと、地名の一致以外の根拠はないということになります。
私が訪れての感想としては、島尻大里城が南山王の居城だった可能性はかなり低いのではないかと思われます。 第一に、琉球を三分した王国の居城としてはあまりに貧弱すぎます。たとえ今に残る遺構が全体のごく一部だった としても、石垣は低く曲輪は狭く、王宮すら満足に建てられるような規模ではありません。今帰仁城や島添大里城 はおろか、南山王国に包摂ないし隣接していたとみられる有力勢力糸数按司の糸数城に比べてもかなり貧相です。 そして第二に、地形上ある程度目立つ場所を選ぶという琉球の築城セオリーにまったく当てはまっていません。 島尻大里城は脇に沢が流れる扇状地の縁にあり、川に面していない三方から見れば、斜面続きの高台という程度の 印象です。防衛上はもちろん権威付けという面からも、王の城とするには大いに疑問です。 たとえば那覇港に通じる豊見城城は、汪応祖の築城ともいわれています。さすがに豊見城城では北端すぎるかも しれませんが、島尻大里ではやや南西に寄りすぎているのではないかというのが、私の直感です。 そもそも、地名の一致だけを根拠に蔡温が南山王国の一貫した居城として挙げた島尻大里城を、島添大里城から の移転先とするのは妥協としても安易に過ぎます。城というよりは役所といった方が妥当な島尻大里城を南山王の 居城とする見方には、一旦留保が必要なように思います。
6. 第二の論点に対する私見
続いて南山王国と南山王の歴史について、これまでの論点を踏まえて私見を展開したいと思います。
6-1 南山と中山の関係
中国明王朝の記録『明実録』によれば、南山王国は1380年に最初の朝貢を行ったとされています。承察度の跡を
襲った汪英紫が没したのが1400年代初頭とされ、『李朝実録』に「山南王子承察度」と「山南王温沙道」の記述が
みられるのが、それぞれ1394年と1398年です。これら外国の史料から、承察度こと大里按司から汪英紫の系統へと
王統が移ったとする説が有力となっています。
ここで、管見の限りとくに注目されているようにみえないのですが、私は『李朝実録』で「中山王」が温沙道を
逐ったり、王子承察度の返還を求めている点に強い違和感を覚えます。もし汪英紫が独力でクーデターを起こして
南山王位を簒奪したのであれば、前の南山王一族の身柄を中山王が要求するというのはおかしな話です。中山王が
直接承察度を追討した、あるいは汪英紫に追い落とさせたというのでなければ、不可解に思われるのです。
また、仮に承察度が中山王に追い落とされたのだとして、汪英紫の南山王国が中山王国と並び立つ関係にあった
のならば、承察度は朝鮮ではなく叔父の汪英紫を頼れば良かったはずです。そうしなかったのは、承察度と汪英紫
が対立していて、さらに南山王と中山王は対等な関係ではなかったからと解釈できます。 すなわち、1398年まで
の間に中山王ないしその意を受けた汪英紫が承察度(大里按司)を駆逐し、南山王国は少なくとも表向きは中山王
に従属する立場となったというのが私の見解です。さらに、島添大里城はこのときに中山王国の保有するところと
なった可能性が高いと思われます。つまり南山王国の都は、承察度が滅ぼされたことによって汪英紫の本貫地へと
移ったものと考えると一応辻褄が合うのです。ただしその移転先については、前述のとおり現況での確定は困難で
しょう。『日本城郭大系』では、汪英紫を八重瀬の当て字としていますが、さすがに無理があるように思います。
一方で、汪英紫と汪応祖は音が似ているので、北山王の「はにじ」と同じく同一の地名や按司名の当て字であると
いう見方は充分に成り立つでしょう。
ちなみに、後に三山を統一する尚巴志は、1393年に父尚思紹の跡を継いで佐敷按司となったとされ、その際には
中山王国の版図にある伊覇按司一世の推挙を受けたといわれています。尚思紹については出自や佐敷按司となった
経緯など定かではありませんが、南山の都が島添大里城にあったとすれば、それを飛び越えて家臣を封じたことに
なり不自然です。よって、やはりこのころまでに島添大里城が中山王の手に帰していたか、南山王国が中山王国の
影響下に置かれていたものと推察されます。
6-2 南山と尚巴志の関係
佐敷按司尚巴志は、1402年ごろに島添大里城を奪い、1406年に浦添城を攻略して中山王を簒奪しました。この間
の経緯については、にわか集めの私の知識では確たる推論はまとめきれません。ただ、ひとつだけ確実にいえるの
は、この中山王国の下克上劇に際して、南山王国がなんらのアクションも起こしていないようにみえることです。
もし定説のように三山が鼎立していたのなら、どちらも至近距離にいる佐敷按司と中山王の争いに南山王が無関心
でいられるとは思えません。
もう1つ、南山王と尚氏との関係で気になるのが、1416年の尚巴志による北山遠征です。この戦いで北山王国は
滅びたわけなので、それ相応の大掛かりな出征であったと推察されます。首里城から北山王国の都今帰仁までは、
少なくとも3日はかかる道程です。それに対し、島尻大里城から首里までは半日弱、国境の国場川からなら1時間
程度で歩けてしまうほどの距離です。もし三山が鼎立して覇を競っているような状況であったとすれば、南山を
放っておいて先に北山を討つなどというのはとても現実的には思えません。
この2点からも、尚氏と南山王国は従属関係にあったか、最低でも同盟を結んでいたと考えられるのです。
南山王国が滅ぼされたのは、北山滅亡から13年が経った1429年とされています。ですが、この1429年は前述の
とおり最後に明に朝貢を行った年であり、南山王国の終焉を示すような記録は残っていません。よしんばそうだ
としても、北山王国を一度の遠征で征服できた中山王国が、南山王国を滅ぼすのに13年も要するとは合点がいき
ません。この点もやはり、南山王国が中山王国に従属して存続していたのだと考えると、説明がつくように思い
ます。
1429年あるいはそれ以降に何があったのかは分かりませんが、個人的には尚巴志が南山王国を攻め滅ぼしたと
いうより、単に南山王を「廃した」というような流れだったのではないかと推察しています。なかには、「〜思
(おもい)」という琉球の幼名に由来するとされる他魯毎は、南山王国に送り込まれた尚巴志の子であるとする
説もあるようですが、私は一顧の価値のある推測のように思っています。
7. まとめ
以上、私が沖縄を旅して感じた「三山は「鼎立」してはいなかったのではないか?」「南山城(島尻大里城) は南山王の居城なのか?」という疑問について、簡単に調べた限りでの推論を述べさせていただきました。こう して私見をまとめる過程で思ったのは、汪英紫が台頭する14世紀末から尚巴志が覇権を確立する1420年代までの 琉球南部の政治情勢は、非常に複雑なものであったろうということです。 ここでは大きくは取り上げませんでしたが、南山王・中山王(武寧)・尚巴志のほかにおそらく糸数按司も、 当時はほぼ独立勢力として重要なプレイヤーだったものと思われます。さまざまな勢力と思惑が交錯するなかで、 いかにして尚巴志が勝ち上がることができたのか。この点は琉球史においてとても興味深く、またとても難しい テーマであるといえるでしょう。