南山城(なんざん) | |
別称 : 島尻大里城、高嶺城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 南山王か | |
遺構 : 石垣 | |
交通 : 那覇バスターミナルからバスに乗り、 糸満バスターミナルで乗り継ぎ。 「高嶺小学校前」下車 |
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<沿革> 一次資料にはみられない城だが、発掘調査の結果からは13世紀の築城と みられている。 南山城の名は、ここが三山時代の南山王の居城とされていることにちなむ もので、当時の呼称ではない。南山王国の都であったという証拠があるわけ でもなく、あくまで18世紀初頭に琉球王国の宰相蔡温がまとめた史書『中山 世譜』の説によるものである。 『世譜』に先立ち1650年に成立した『中山世鑑』では、南山王国の居城は 島添大里城とされている。1406年に佐敷按司の尚巴志が浦添城の中山王 武寧を滅ぼしたが、『世鑑』ではその前に尚巴志は島添大里城を攻め落とし、 南山王を称したとしている。しかし、蔡温は1429年まで南山王国が明に朝貢 していた記録を発見したことから、南山の居城を「島添」大里城ではなく島尻 大里城であると修正した。『世譜』では、この最後の朝貢年に尚巴志が南山 王国を滅ぼしたとしているが、この点についても史料上の裏付けはない。 他方で現地には、源為朝と南山王の妹が逢引していた場所とする「和解森 (わだきなー)」がある。為朝は保元元年(1156)の保元の乱に敗れて伊豆 大島へ配流され、後に追討を受けて自害したとされるが、琉球王国の正史 では脱出して運天港に流れ着き、この地で中山王となる舜天をもうけたと される。 また、南山王最後の王他魯毎(たるまい)が、城の脇を流れる嘉手志川と 金屏風の交換を尚巴志から持ち掛けられ、これを受けたために人望を失った とする伝承もある。 <手記> 南山城は、糸満の海に注ぐ報得川の支流嘉手志川を少し遡ったところに あります。南から伸びる扇状地状の緩やかな斜面上にあり、東に嘉手志川 がごく浅い谷を形成しているほかは、地形上の要害性はとくにありません。 古くはゾウリムシ状の単郭城の構造が残っていたそうで、今はその半分 ほどが高嶺小学校の敷地となっています。残った南東半分ほどを低い石垣 が巡り、郭内には神社が祀られています。境内には説明板もあり、そこには 南山王の居城として、上述の「和解森」の伝承について触れられています。 このように蔡温の『世譜』以来南山王国の都として定着している島尻大里 城こと南山城ですが、私は実際に訪ねてみて、その点について大いに疑問 に感じました。 というのも、北山王国の今帰仁城や『世鑑』にいう島添大里城、有力按司 とみられている糸数按司の糸数城などと比べて、この城はあまりにも貧相 なのです。石垣は低く、曲輪はさして広くなく、また城門跡とみられる石垣の 切れ目の間隔が狭く、とても琉球を三分した王国の居城があったとは考え られません。 この南山城および南山王国に関する私の疑問については、こちらで別途 論考していますので、ご参照ください。 また、前述の2つの伝承についても明らかに無理があると言わざるを得ま せん。まず、源為朝がもし琉球に流れてきていたとしても、そのころはまだ 南山王国は成立していません。次に、もしここが南山王の居城だとすれば、 どんなに無能でも城の濠を兼ねる川の利権を余所者に譲り渡すとはとても 思えません。尚巴志にしても、報得川ならいざ知らず、その支脈の利権を 得たところで、直接出向くことはできず何の利益もありません。 これらの伝承は、おそらく『世譜』の説が広まるなかで、「そーいえば!」 的なノリで後付けに発生していったものではないかと拝察されます。 |
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南西隅の石垣。 | |
西辺の石垣。 | |
南辺の石垣。 | |
西辺の石垣の神社入口。 | |
神社境内の説明板。 | |
南山神社。 | |
境内の石垣。 拝所跡か。 |
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同上。 |