下畑城(しもはた)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 小林宮内助か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR小海線海瀬駅徒歩35分

       <沿革>
           『妙法寺記』によれば、天文九年(1540)に甲斐の武田信虎が佐久へ侵攻した際に、
          海尻城代となった小山田氏の陣代小林宮内助が佐久に1城を築いたとあり、一般には
          これが下畑城とされている。
           その後、武田家臣小宮山丹後守が信虎の子晴信(信玄)から1城を与えられたとされ、
          これもまた下畑城を指すと解されている。小宮山氏はもともと佐久郡小宮山郷(現在の
          佐久市小宮山)を本貫とし、故あって甲斐国に移り武田氏に仕えたとされる。藤姓とも
          源姓逸見氏流ともいわれ、後者であれば遠縁ながら武田氏とは同族ということになる。
          「小宮山丹後守」に相当する人物としては、小宮山昌友がいる。昌友は信玄のもとで
          諏訪郡代や上州松井田城代などを務め、元亀三年(1572)の二俣城攻めで討ち死に
          している。昌友の跡は嫡男友晴が継いだが、天正十年(1582)に武田勝頼に殉じて
          甲斐国天目山(田野)で戦死した。


       <手記>
           下畑城は千曲川西岸の細長い尾根上にあり、東側はかなり標高差のある河岸の
          急崖ですが、西側はごく緩やかな谷戸に面して要害性も乏しいというかなり特徴的な
          地形をしています。南麓の十二明神から登る道路が最後尾の堀切跡で尾根を横切り、
          そこに説明板と入城口があります。
           城は、基本的に細い尾根筋を堀切で切断し、連郭式に曲輪が並んでいます。本丸
          背後に大きな堀切が1条、その手前にごく浅い堀が1条あり、道路となっている最後尾
          のものと合わせて計3条の堀切が認められます。
           本丸は、西を除く3辺の下に帯曲輪が巡っています。先端側から降りようとすると、
          ものすごい笹薮でおそらく冬場でも大変な感じです。先へ進むには、本丸からいったん
          戻って南側の帯曲輪へ回ると、東側の鉄塔を抜ける道が続いています。
           その先には、3条の堀切とそれに挟まれた二の丸・三の丸があります。堀切はどれも
          規模が大きく、また片薬研になっているのが特徴です。他方で、堀切の間の曲輪形成
          はやや甘い感じがあり、堀で守るという端的な防衛思考が見て取れます。
           三の丸の先はしばし自然地形の細尾根となり、やがて小ピーク上に2本目の鉄塔が
          現れます。その下の鞍部に小さな堀切状遺構があり、その先には「下の城」というもう
          1つ同じくらいの規模の城跡があるそうです。ただ、私が訪れた5月にはすでにド藪で、
          バンビちゃんにも出くわしたのでちょっと無理だと諦めました。
           全体として、造作の大きさや規模から武田氏の意を受けて築いた城というのは首肯
          できます。軍事拠点であると同時に、西に延びる大久保の谷戸の経営拠点でもあった
          のでしょう。

           
 南麓から下畑城を望む。
 左の鉄塔が本丸。中央右の鉄塔までが城域。
最後尾の堀切跡にある説明板。 
 その次に目にする浅い堀跡。
本丸背後の堀切。 
 本丸にある標柱。
本丸のようす。 
 本丸から東側下の帯曲輪を見下ろす。
本丸南側下の帯曲輪。 
ここから上の鉄塔へと回り込めます。 
 本丸と二の丸の間の堀切。
二の丸と三の丸の間の堀切。 
 三の丸の土塁。
三の丸先端下の堀切。 
 同上。
さらに北上した鉄塔下の堀切状地形。 


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