下石原遺跡(しもいしわら)
 別称  : 下石原館
 分類  : 平城
 築城者: 不詳
 遺構  : なし
 交通  : 京王線西調布駅または京王多摩川駅徒歩5分


       <沿革>
           下石原遺跡は東京都遺跡図に登録されている、縄文時代から近世までの複合遺跡である。
          区分のひとつとして「城館」と記載されており、中近世の遺物として掘立柱建物跡や井戸、溝が
          検出されているとあるが、詳細は定かでない。
           『小田原衆所領役帳』によれば、龍崎文四郎が「下石原海老名分」に66貫文余を領している。
          文四郎の本貫は江戸湯島53貫文余とみられているが、そのうち30貫文が中村平四郎に売却
          されていることから、居館が下石原に営まれていた可能性も考えられる。龍崎氏については、
          『鎌倉公方九代記』に、応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱において鎌倉公方足利持氏を
          守って戦った側近衆のうちとして龍崎尾張守・伊勢守父子の名がみられ、関係が指摘されて
          いる(『小田原編年録』)。


       <手記>
           上記のとおり城館跡を含む形で記載のある遺跡指定地区ですが、正確な所在地など詳細は
          不明です。遺跡の指定範囲は下石原3丁目のほぼ全域で、一帯は多摩川河岸上の住宅地と
          なっています。指定区域の南東端には2基の古墳跡が、北西端には若宮八幡神社があり、
          城館跡との関連を考えるとするならこのうちのどちらかの付近と推測されます。
           古墳跡は福祉センターとなっていて、墳丘は残っていないようです。その脇の児童公園裏に
          削り残しの藪がありますが、覗いてみても何の変哲もない藪でした。 
           若宮八幡神社は、上石原村に生まれた新撰組局長近藤勇が戦勝祈願をした神社ということ
          で、境内社殿ともにとても立派です。今は更地となっている道路向かいの西側には稲荷社が
          向かい合って鎮座していたそうです。とはいえこちらも、城館跡に結びつきそうなものはとくに
          みられません。
           神社の南西麓には「城山保育園」があり、地名由来のようにも思えますが、どうやら稲城市
          の向陽台城山にある同名の保育園の分園ということのようです。稲城市の城山は、実在する
          大丸城にちなんだ地名と思われますが、こちらの城跡は山ごと消滅しています。
           いずれにせよ、下石原に城館があったとすれば、多摩川の河岸上に築かれた崖端の城で
          あったものと推察されます。ここから北西にスライドすると、同じ河岸のライン上に浅野長政館
          があります。関ヶ原の戦いに際して浅野長政が蟄居した館ですが、こちらも崖端に立地して
          いて、恭順の意を示すためにわざわざ建てたにしては不自然な選地です。下石原の館ととも
          に、中世の在地領主の居館としてすでに営まれていたと考える方が、私見としては腑に落ち
          やすく感じます。
           
 遺跡指定区域南東端の古墳跡を見上げる。
遺跡指定区域北西端の若宮八幡神社。 
 若宮八幡神社を河岸下から見上げる。
城山保育園。 
おそらく城館とは無関係です。 
 保育園前から河岸を見上げる。
 河岸のラインをうかがうには絶好のポイント。


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