茶臼山城(ちゃうすやま)
  別称  : 高嶋城、古城
  分類  : 平山城
 築城者 : 諏訪氏か
  遺構  : 削平地
  交通  : JR中央本線上諏訪駅徒歩15分


       <沿革>
           築城者や築城時期は詳らかではない。このあたりは諏訪大社上社と下社の領堺
          付近であり、両社の対立が深まるなかで築かれたものと推測される。茶臼山城が
          最初に記録に登場するのは、文明十五年(1483)のいわゆる文明の内訌において
          である。
           当時、上社大祝の諏訪氏は祭事を司る大祝家と、政務を執る総領家に分かれて
          おり(それまでは幼時に大祝を務め、成長すると総領となった)、両家は次第に対立
          するようになった。下社大祝の金刺興春は、上社大祝諏訪継満と結んで総領諏訪
          政満を謀殺し、「高島城」を攻略したとされる。現在の高島城が築かれるのは安土
          桃山時代のことなので、この高島城は茶臼山城を指すと考えられている。興春は、
          総領家の家臣との戦いに敗れて戦死し、首を大熊城に晒された。
           武田晴信(後の信玄)の侵攻により諏訪総領家が滅ぼされると、晴信は重臣板垣
          信方を上原城に配して統治した。信方が上田原の戦いで戦死すると、天文十八年
          (1549)に諏訪の本拠を茶臼山城に移し、長坂氏らを派遣した。
           天正十年(1582)、武田氏が織田信長によって滅ぼされると、諏訪は甲斐とともに
          河尻秀隆に与えられた。秀隆は代官弓削重蔵を茶臼山城に送って統治させた。
           しかし、同年の本能寺の変によって信長が斃れ、それに乗じた甲斐国内の反乱に
          よって秀隆も横死すると、上社大祝であった諏訪頼忠が茶臼山城を回復し、諏訪の
          領主として返り咲いた。頼忠は平地にある金子城を修築して天正十二年(1584)に
          移り、ここに茶臼山城は廃城になったものと思われる。


       <手記>
           茶臼山は甲州街道上諏訪宿の背後、立石丘陵の先端に位置します。諏訪の浮城
          こと高島城の位置から考えて、当時は眼下に湖水が迫り、城と湖の間に街道が通る
          絶好の要衝にあったものと思われます。
           現在本丸周辺は公営桜ヶ丘団地や水理施設になっていて、往時を偲ぶものはあり
          ません。団地の一角に城跡を示す案内板があるのみです。本丸域と立石丘陵の間は
          浅い谷となっていて、ここを堀切などで切っていたものと考えられます。
           城へは甲州街道沿いにある手長神社の参道を登り、神社の脇をマンション伝いに
          上る石段をあがっていくのですが、この石段に沿って数段の削平地が残っています。
           諏訪氏から武田氏、そして織田氏へと受け継がれた貴重な史跡ですから、詳しい
          調査が行われることを期待します。


           
 高島城天守から茶臼山を望む。
 (中央、ビルの裏手の緑の丘)。
  本丸周辺現況(中央に案内板があります)。 
 手長神社裏手の削平地跡。


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