大熊城(おおぐま)
  別称  : なし
  分類  : 山城
 築城者 : 千野氏
  遺構  : 曲輪跡、土塁、空堀
  交通  : 中央自動車道諏訪ICより車で20分


       <沿革>
           諏訪氏の重臣千野氏の居城とされるが、築城年代や築城者については分かっていない。
          大熊城が文献に登場するのは、文明十五年(1483)のいわゆる文明の内訌に際してである。
          当時、諏訪氏は諏訪大社の祭祀を司る大祝家と、軍事や政務を司る総領家に分裂し、諏訪
          全体を巻き込む争いに発展していた。大祝家を支持する下社大祝の金刺興春が、総領家の
          茶臼山城を占領して上社へ侵攻を図ると、千野氏ら総領家方の重臣は軍勢を整えて金刺勢
          と合戦した。結果下社方は大敗し、金刺興春も討死した。このとき興春の首が大熊城に2晩
          晒されたとされている。ただし、このときの城主が誰であったかは明らかでない。
           天文十一年(1542)、武田晴信(後の信玄)が諏訪に侵攻すると、大熊城は晴信と結託した
          高遠頼継に攻められた。城将であった千野入道兄弟は計略を用いて奮戦したが、落城したと
          伝わる。
           諏訪総領家の滅亡後、千野氏は武田氏に従い、安国寺合戦や塩尻峠の戦いなどで功を
          上げたことにより真志野や有賀の地を宛てがわれ、本拠をこちらに移したものとみられている。
           廃城時期については分かっていない。


       <手記>
           大熊城は、諏訪大社の御神体でもある守屋山から諏訪盆地にせり出した尾根の先端部、
          三日月型の半独立丘に築かれています。南には諏訪大社上社を望み、眼下東側1kmほどの
          ところには、中世諏訪盆地唯一の平城である金子城があります。
           城の南半分ほどは中央高速道路が通っているため消滅してしまいましたが、建設に際して
          詳細な発掘調査がなされ、その全貌が明らかになっています。それによれば、主郭を中心に
          三日月状に連郭式に6つの曲輪が配されています。現在見られるのは主郭から三の郭まで
          ですが残存状況は比較的良好で、全体が畑に転用されているものの、土塁や曲輪跡、空堀
          がはっきりと確認できます。
           城からは諏訪盆地全体への眺望が開け、三方は地図上で見るよりも標高差が厳しく急峻な
          地形に感じられます。
           車で訪れる場合は上社から有賀方面へ県道を進み、湖南大熊交差点の次の信号付交差点
          を左折し、道幅の狭い集落の幹線を道なりに上っていきます。城跡は個人の畑地となっている
          ため、ちょうど農作業をなさっていた方にお断りして、畑の脇に駐車させてもらいました。諏訪
          全体にいえることですが、とにかく道が狭く心もとないので細心の注意が必要です。地元の方
          の温かさにも触れることもできるので、旅としては面白いのですが。


           
 大熊城主郭を望む。
  主郭と二の郭の間の空堀。 
 二の郭を望む。
荒城麓から大熊城を望む。 


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