志村城(しむら)
 別称  : 篠田城
 分類  : 平山城
 築城者: 志村氏か
 遺構  : 空堀、土塁
 交通  : 都営地下鉄三田線志村三丁目駅または志村坂上駅徒歩5分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』に「延命寺の伝へに拠れば、往昔篠田五郎と言者住せし所なり」とある。しかし、
          この篠田五郎という人物については不明である。
           豊嶋氏の一族に志村氏があり、豊嶋清光の代に志村光行の名が見られる。志村城はこの志村氏の居城
          であったと考えられているが、確証はない。また、志村城二の丸に建つ熊野神社は、長久三年(1042)に
          志村将監なる人物によって勧進されたと伝わる。その後の志村氏については、不明な点が多い。観応元年
          (1350)の観応の擾乱に際して、高師直派として戦っていた志村親義の着到状が残っている(複製が赤塚
          城址公園の区立郷土資料館に展示されている)。
           康正元年(1455)、享徳の乱で下総を逐われた千葉自胤は、太田道灌を頼って赤塚城に移った。志村城
          にも、自胤の弟信胤が入ったといわれる。千葉氏と志村氏の関係は不明だが、豊嶋氏と太田氏が対立して
          いたことから、道灌の助力を得た千葉氏が志村氏を駆逐したとも考えられる。後に豊嶋氏は道灌によって滅
          ぼされている(志村氏自体は、太田氏に臣従して存続したとみられている)。
           大永四年(1524)、志村城は南から勢力を伸ばした北条氏綱によって攻められ、落城した。武蔵千葉氏
          はほどなく北条氏に従ったが、志村城がどうなったかについては詳らかでない。本丸と二の丸の間の空堀
          は鉤字に折れていたとされ、北条氏による改修と考えることもできる。北条氏や千葉氏によって引き続き城
          が利用されていたとすれば、廃城は天正十八年(1590)の小田原の役の直後と思われる。
           

       <手記>
           志村城は、西の赤塚城や東の稲付城と同じく、荒川南岸丘陵地帯の舌状台地を利用した城です。東のみ
          が地続きで、とくに北側は急崖となっています。すぐ西の中台には、同じ豊嶋氏一族の中台氏がいましたが、
          その居城がどこにあったかは不明です。
           志村城は、本丸と二の丸の間の空堀と土塁が残されており、23区内の城跡としては貴重な遺構となって
          います。その位置は上の地図で太線に示したあたり、ちょうど熊野神社の社殿西側です。下の写真は、夏場
          のため少々分かりづらいのですが、かなり規模の大きな堀であったと思われます。
           現在本丸には小学校と巨大マンションが建っており、自由に立ち入ることはできません。熊野神社の鳥居
          脇に城址碑があります。ちなみに、志村三丁目駅の方が近いですが、急坂を登らなければなりません。志村
          坂上駅からだとフラットに行けます。


           
 熊野神社鳥居脇の城址碑。
空堀と土塁(左手)。 
 志村三丁目駅方面から本丸を望む。


BACK