東殿山城(とうどのやま)
 別称  : 赤谷山城
 分類  : 山城
 築城者: 東常慶
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀
 交通  : 長良川鉄道郡上八幡駅からバスに乗り、
      「愛宕公園前」下車徒歩25分


       <沿革>
           天文九年(1540)、越前朝倉氏の侵攻を居城篠脇城で辛くも撃退した東常慶は、城の損傷と
          防備の増強を理由に東殿山北側の尾根筋に新しく城を築いて移った。これが東殿山城である。
          ただし、東殿山山頂付近には東益之が応永十六年(1409)に築いた犬吠山城があったともいわ
          れる。
           常慶は、嫡男常尭に木越城主遠藤胤縁の娘を娶わせようとしたが、胤縁は常尭が非道である
          として拒否し、畑佐城主畑佐備後の子とされる畑佐六郎左衛門信国に嫁がせた。これを恨んだ
          常尭は、永禄二年(1559)に八朔の祝いへ招いた胤縁を家臣長瀬内膳に射殺させた。
           胤縁の弟盛数は、胤縁の子胤俊と共に弔い合戦と称して1千の兵を集め東殿山対岸の八幡山
          に陣を構えた。遠藤勢は堀越峠や安久田など三方から攻め寄せ、10日に及ぶ激戦の末に城を
          落とした。このとき、城の東側の谷で多くの城兵らが転落死したことから、地獄谷の名がついたと
          いわれる。常慶は討ち死にし、常尭は帰雲城の内ヶ島氏を頼ったが、天正十三年(1586)の天正
          大地震で城や内ヶ島一族もろとも皆死した。
           下克上を果たした盛数は、八幡山に新城を築いて居城とした。これにより、東殿山城は廃城と
          なったとみられている。


       <手記>
           現在の東殿山は「とうどやま」と読まれていますが、「東氏の殿様の山」という意味で、史料上は
          江戸時代から見られる呼称だそうです。当時は赤谷山城と称していたと考えられており、地獄谷
          とは反対側の、西麓の谷を赤谷と呼んだことにちなんでいます。なので、赤谷山城の呼び名の方
          が今では一般的なようですが、表題を東殿山(とうどのやま)としたのは個人的な趣向によるただ
          の自己満足です笑
           城山へは、北麓の愛宕公園の池の脇あたりから登山道が整備されています。登ってまずたどり
          着く小ピークに祠と縄張り図付きの説明板が設置されていますが、この縄張り図は曲輪の呼称が
          少なくとも現地標柱と異なっているので注意が必要です。このピークは、関ヶ原の戦いで盛数の
          子慶隆が八幡城を攻めた際の陣所ともいわれています。
           さらに登っていくと、やがて大手曲輪と標柱の建つやや広い平場に出ます。実際に曲輪形成が
          成されていたかは定かでありませんが、根古屋施設や馬場などがあった可能性は高いでしょう。
          その奥の鞍部を越えると、いよいよ外からみてもそれと分かる急峻な細尾根登山の始まりです。
          先人のみなさんのサイトなどを拝見すると、とにかく「デンジャラス」との感想が寄せられており、
          私としても第一種警戒態勢で望みました。ただ、逆に身構えすぎたせいか、たしかにロープを頼り
          によじ登らなくないポイントは多々ありましたが、道自体は明示されていて迷う心配はありません
          し、そこまで脅かすほどではなかったような気が……いえ、出過ぎたことを申しました^^;
           主城域は、団子3兄弟のようにポコポコとなった3つのピークが、それぞれ一の曲輪・二の曲輪・
          三の曲輪となっています(現地表記)。鎖場になって最初に着く三の曲輪は、曲輪形成は曖昧な
          ものの、少なくとも2段に削平されています。
           二の曲輪エリアは、最下段がY字型のやや広い平場になっているのが特徴で、その付け根から
          赤谷側へ下りると、谷筋に水呑場の石積みが見られます。市役所裏から赤谷を遡って水呑場に
          至る登城ルートもあったようなのですが、私の訪れた時点では水呑場より先の道は消失している
          ようでした。戻ってY字型曲輪から再び登ると、数段の腰曲輪を経て二の曲輪があります。曲輪の
          背後尾根にはごく浅い土塁線が付属しているのですが、鞍部に堀切などは見られず用途は不明
          です。
           そこからさらに最後の難所を登りきると、いよいよ一の曲輪です。一の曲輪はほぼ単郭の丸み
          を帯びた形状で、一部土塁の痕跡が見られます。主郭で見逃してはならないのは、西辺側面の
          石垣でしょう。現状では中央・右・左の3ブロックに分かれて残存しており、中央のものが最大で
          見応えもあります。水呑場の石積みが明確に沢を堰き止めるための造作なので、こちらも急崖を
          保持するための土留め石垣とみるべきでしょう。
           東殿山城は、八幡城と引き換えに廃城となったとすると、20年弱しか存在しなかったことになり
          ます。しかしながら、これだけの遺構と下克上の戦歴、そして諸人のデンジャラスな感想を残して
          いるとなると、郡上の歴史のなかでもかなり光り輝いているように感じられます。

           
 東殿山城跡遠望。
大手曲輪。 
 大手曲輪背後の鞍部。
三の曲輪。 
 三の曲輪の腰曲輪。
三の曲輪背後のようす。 
 鎖場(ロープ)の登山道。
二の曲輪エリア最下段のY字型曲輪。 
 Y字型曲輪片割れの先端部。
二の曲輪下の腰曲輪群。 
 二の曲輪。
ごく浅い土塁線を伴う二の曲輪背後尾根。 
  一の曲輪。
一の曲輪の土塁跡。 
 一の曲輪西側斜面下の石垣。
同上。 
 中央と右手の石垣。
左手の石垣。 
 水呑場の石積み。
同上。 


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