白川城(しらかわ)
 別称  : 搦目城、結城白川城
 分類  : 山城
 築城者: 結城祐広か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : 東北新幹線新白河駅またはJR東北本線白河駅
      からバスに乗り、「八竜神」下車徒歩10分


       <沿革>
           白河結城氏累代の居城である。近世まで存続した白河小峰城と区別するため、
          一般に「白川」城ないし搦目(からめ)城と呼ばれる。
           白河結城氏は、下総結城氏2代朝広の子祐広が、正応二年(1289)に陸奥国
          白河の所領を受け継いで分家したことにはじまる。白川城もこのときに築かれた
          とされるが、一方で関川寺館が白河結城氏初期の居館跡と目されており、詳しい
          築城の経緯は定かでない。
           祐広の嫡孫親朝は、小峰城を築いて小峰氏を称した。本家は親朝の嫡男顕朝
          が継承し、小峰氏は次男朝常が継いだ。
           永正七年(1510)、本家の結城政朝は小峰朝脩と対立し、これを攻め滅ぼした。
          しかし、朝脩の父直常と冷遇されていた政朝の嫡男顕頼が結託し、政朝を攻めて
          追い落としたとされる。一方、近年では朝脩は誅殺されておらず、逆に政朝・顕頼
          父子を駆逐して本家を簒奪したとする説も呈されている。いずれにしても、白川城
          で争乱があった可能性が考えられるが、詳細は不明である。
           天正元年(1573)に本家の結城晴綱が病没し、嫡子義顕が幼くして跡を継ぐと、
          晴綱の弟ないし子とされ、小峰氏を再興していた小峰義親が後見として台頭した。
          同三年(1575)、義親は義顕を追放して本家当主の座に就いた。このとき、ないし
          前出の新説に則るなら永正七年時点で、白河結城氏の居城が小峰城に移された
          ともいわれるが、確証はない。
           義親は、天正十八年(1590)の小田原の役に参陣しなかったため、豊臣秀吉に
          よって改易された。遅くともこのときまでに、白川城は廃されたものとみられる。


       <手記>
           南西麓の道路脇から道が通じていて、車でも容易に主郭下まで辿り着けます。
          主郭は御本城山と呼ばれ、周囲を高い切岸に囲まれた独立空間となっています。
          発掘調査の結果、南北朝時代には御本城山に城砦が設けられ、そこから時代と
          ともに東西へ城域が拡張したと推定されているそうです。別称の搦目城も比較的
          知られていますが、当の搦目山は御本城山のひとつ東側の峰を指すようです。
           御本城山とその下の帯曲輪付近までは、草も刈られて見やすくなっていますが、
          それ以外は残念ながら藪に埋もれていました。西側尾根も、私が訪れたときには
          封鎖されて立ち入りはできず、中心部分のみの見学となりました。
           白川城一帯の山々はさほど要害性が高いとはいえませんが、城域は広範囲に
          及ぶようです。その規模を鑑みると、少なくとも戦国時代後期までは、改修を重ね
          つつ使用されていたのではないかと感じられます。白河小峰城の石垣修復工事
          も完了し、国指定史跡でもあることから、今後の整備が期待されます。

           
 御本城山背後の切岸と石碑。
御本城山背後の堀切。 
 御本城山内部のようす。
御本城山前方の土塁と虎口。 
 御本城山西側下の帯曲輪と土塁。
 門跡か。
御本城山西側尾根の接続部。 


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