白鳥城(しろとり)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 白鳥氏
 遺構  : 曲輪、堀、切岸
 交通  : JR奥羽本線村山駅からバスに乗り、
      「戸沢小学校」下車徒歩15分


       <沿革>
           国人領主白鳥氏の居城とされる。白鳥氏は、一般には平安時代の奥六郡領主安倍頼時
          の八男にあたる行任の子則任を祖とするとされる(則任は頼時の八男とも)。則任は胆沢郡
          白鳥を領して白鳥八郎を称し、安倍氏が前九年の役で滅ぶと、この地に逃れて土着したと
          いわれる。ただし、これを裏付ける証拠はなく、白鳥氏がいつごろ成立して白鳥城を築いた
          のかは定かでない。文献上は、『後太平記』に南朝方の将として白鳥冠者義久が登場する
          が、信憑性の高い史料においては応永九年(1402)に、白鳥氏が鎌倉府に反抗する伊達
          政宗を寒河江氏らとともに攻めたのが初出とされる。
           永禄から元亀(1558〜73)にかけてのいずれかの時期に、経緯は不明だが、白鳥十郎
          長久が谷地城主中条長昌の跡を襲った。一説には、白鳥氏はそもそも中条氏の一族とも
          いわれ、また長久の父義久を将軍足利義晴の庶子とする説もあるが、いずれも確証はない。
           長久は知勇兼備の名称といわれ、谷地城を新たな拠点に勢力を拡大した。ついには織田
          信長に名馬を献上して出羽守を得ようとしたため、南羽の第一勢力である最上義光の警戒
          を呼んだ。天正十二年(1584)、長久は山形城に誘殺され、まもなく白鳥氏は滅ぼされるが、
          十郎が谷地城へ移って以降の白鳥城の動静については定かでない。


       <手記>
           白鳥城へ行くには、まず戸沢小学校北隣の戸沢中学校跡地へ向かうのがおすすめです。
          駐車場がそのまま使えるので、車でも大丈夫です。そこから城山へ目をやると、白鳥城跡
          入口の大きな看板があるので、それに従えばあとは登山道を進むだけです。途中、1か所
          だけどちらが正解か迷う分岐がありますが、山頂側を意識すれば問題ありません。
           山の中腹に差しかかったところで、左手に茂みの開口部が現れます。これは主城域背後
          の大堀切の南端で、城中最大の見どころのはずなのですが、とにかく雑木に埋もれていて
          よくわかりません…。山頂付近から見ても同様です。
           道のり自体はさほどの労もなく、主郭に到着します。石碑や説明板、四阿などが整備され
          ていて、眺望こそないものの明るい空間です。主郭の北1段下には副郭があり、その周囲
          には帯曲輪や腰曲輪が複数みられます。先の大堀切を除けば、それほど特筆すべき造作
          はみられず、規模も大きいとはいえません。
           ところで、出自が謎の白鳥氏ですが、一介の国人から最上氏にチャレンジするまでにのし
          上がった白鳥十郎長久という人物は、なかなかに野心深く覇気に富み、興味をそそられる
          ように思うのです。そんな長久の野望のスタート地点となった城ということで、ひとり勝手に
          主郭で感慨に浸ってしまいました。

           
 白鳥城跡を望む(右手の濃い緑の林)。
戸沢中学校跡地から城山を望む。 
 大堀切。藪に埋もれてよく分かりません…。
主郭の石碑。 
 主郭のようす。
主郭から副郭を見下ろす。 
 副郭のようす。
帯曲輪。 
 帯曲輪から主郭切岸を望む。


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