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生子山城(しょうじやま) |
別称 : 庄司山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 松木通村か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR予讃線新居浜駅からバスに乗り、 「山根市民グランド」下車徒歩15分 |
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<沿革> 松木伊賀守通村ないし松木越前守景村によって築かれたと伝わる。松木氏の出自については 定かでない。暦応元/延元三年(1338)、生子山城は北朝方の岩松頼宥に攻められ、落城した。 頼宥は足利尊氏から伊予守護に任じられ、南朝方の伊予国人・鳥生貞実が生子山城主となった とされる。 その後、経緯は不明だが応安二/正平二十四年(1369)に一条修理俊村が生子山城に入った と伝わる。この年、細川頼之に逐われていた河野通直が所領回復を図って東予に上陸し伊予を 席巻した。俊村は松木氏と同族とされ、通直と同じく南朝方として旧領を奪還したものとみられる。 俊村ないしその子孫は松木姓に復し、『澄水記』によれば戦国時代後期には、松木氏は高峠城主 石川氏配下の六人群衆の一人となったとされる。 天正十三年(1585)の四国の役に際し、石川家中は金子城主金子元宅の意見により主な将兵 は高尾城へ集結し、当時の生子山城主松木三河守安村もこれに従った。生子山城には鈴木四郎 太夫重保ほか僅かな兵しかおらず、羽柴秀吉麾下の小早川隆景に攻め落とされ、安村も高尾城 で討ち死にした。城はそのまま廃城となったとされる。 <手記> 今日、生子山城跡とされる場所は2か所あります。ひとつは標高300mの生子山山頂一帯で、もう ひとつはそこから北西に延びる支尾根先端部です。後者は明治時代に別子銅山の山根製錬所が 建設され、えんとつ山の通称で親しまれています。北麓の山根公園の和風庭園から登山道が延び ていますが、えんとつ山自体には名前の由来となった赤レンガの煙突が建ち、城館遺構らしきもの は見当たりません。 えんとつ山から反対側へ向かえば、そのまま生子山山頂への登山道となります。ただ、いきなり 鎖場の岩壁となるなど油断は禁物。またもうすぐ城域というところで山頂へ目をやると、斜面に猿の 群れが!本丸へは行けないかも…と思いつつ熊鈴を打ち鳴らして登ったところ、去ってくれたらしく 遭遇することはありませんでした^^; 山頂部は、えんとつ山と打ってかわってしっかり作り込まれています。本丸以下、大きく3つの曲輪 が北へ並んでいて、三の丸の前後に1条ずつ堀切が穿たれています。二の丸には電線鉄塔が建つ ものの、地元の方によるものか樹木が伐採・整理されていて、眺望は城内随一でした。本丸背後は 細い岩尾根が続き、岩盤を断ち割った堀切が2条確認できます。 えんとつ山の方に城砦があったという確信は得られませんでしたが、工場建設によって失われた 可能性は十分にあるでしょう。あるいは南北朝時代の初期の城はえんとつ山にあり、後に生子山の 頂部へと拡張されたとも考えられます。 |
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生子山城跡全景。右手にえんとつ山。 中央左手の凸部が山頂。 |
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えんとつ山のようす。 | |
えんとつ山の先端部。 | |
えんとつ山から新居浜市街を望む。 左手丘陵の右側先端部が金子城跡。 |
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えんとつ山から生子山山頂を望む。 | |
山頂部三の丸の先端部。 | |
三の丸から前方を俯瞰。 | |
三の丸前方下の堀切。 | |
堀切から続く竪堀。 | |
三の丸背後の堀切。 | |
同上。 | |
二の丸のようす。 | |
二の丸から本丸を見上げる。 | |
本丸下から二の丸を俯瞰。 | |
本丸のようす。 | |
本丸に祀られている石仏。 | |
本丸背後の堀切1条目。 | |
2条目。 | |
その奥に続く岩尾根。 |