総社城(そうじゃ)
 別称  : 植野城
 分類  : 平城
 築城者: 秋元長朝
 遺構  : 櫓台跡、濠
 交通  : JR上越線群馬総社駅徒歩15分


       <沿革>
           総社城は、関ヶ原の戦いの後に総社1万石を与えられた秋元長朝によって、慶長六年(1601)に築城
          が開始された。城は同十五年(1610)に完成した。この間、長朝は総社城の南西の八日市場城を仮の
          居所としていた。
           長朝は、城の惣堀も兼ねて利根川から天狗岩用水を引き、この事業によって領内の収穫高を大幅に
          高めた。長朝の治政は領民に広く受け入れられ、用水や城下町の建設にあたっては領民の助けによる
          ところも大きかったといわれる。
           長朝は寛永五年(1628)に死去し、跡を子の泰朝が継いだが、寛永十年(1633)、泰朝は谷村へ加増
          転封となった。これにより総社藩は廃藩となり、総社城も廃城となった。


       <手記>
           総社城は、利根川の河岸段丘を利用した平城ですが、現在本丸と二の丸の大部分を利根川に削ら
          れてしまっています。残された二の丸西辺以下も、宅地化により均されてしまっていて、遺構と呼ぶべ
          きものはほとんどありません。
           上図に塗りつぶしで示した遠見山古墳には、その名の通り遠見の櫓があったといわれています。ま
          た、元景寺と勝山小学校の間を南に走る水路は、往時の外堀の名残です。これら部分的な遺構から、
          当時の城域を推測するほかはありません。
           上図の丸で示した城川公園の一角に、地元愛好会の設置した案内板があります。
           総社城の存在した期間はわずか30年足らずですが、城の北側には戦国期に勝山城があり、植野が
          古くから利根川と街道に挟まれた要地であったことが分かります。


           
 櫓台跡とされる遠見山古墳。
城川公園にある案内板。 


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