村上城(むらかみ)
 別称  : 村上古館
 分類  : 平山城
 築城者: 相馬義胤
 遺構  : 曲輪、土塁、虎口
 交通  : 常磐自動車道浪江ICより車で15分


       <沿革>
           慶長元年(1596)、小高城主相馬義胤は村上城を新たに築き、居城の移転を図った。
          しかし、曲輪の造成が終わり、殿舎の建築に入る段になって、火災により材木がすべて
          焼失した。
           これを不吉とした義胤は村上移転を諦め、翌二年(1597)に牛越城を修築して移った。


       <手記>
           小高市街の東方、太平洋に面してポツンと横たわるテーブル状の独立丘が村上城跡
          です。震災の津波被災により周囲に何もないので、余計に寂寥感があります。南東麓
          の防潮堤まで車道が通じていて、駐車スペースもあります。
           そこから波切不動尊の脇を登れば丘の上に出ることができ、途中には湧水と水神碑
          があることから、水の手とも思われます。登りきる手前には1段低い耕地や墓地があり、
          これらもあるいは腰曲輪の跡とも考えられます。
           丘の上は広大な一枚平場となっていて、築城に際して均されたものと思われますが、
          それ以上の区画造成があったのかは定かでありません。平場の北西先に貴布根神社
          が鎮座しており、その一帯が本丸跡とされています。本殿に向かって東側の台地北辺
          には土塁や虎口跡と思われる地形がみられ、このあたりに最も城跡らしい遺構と景観
          が集まっています。全体的に堀が見当たらないのですが、地形の要害性だけで十分と
          いうことだったのでしょうか。
           伝承にしたがえば、村上城は未完成ではあったものの、曲輪造成までは済んでいた
          ことになります。ですが、現状では織豊時代末期の城とは思えないほど、築城プランが
          見えてきません。そもそも、村上は街道から外れており、海はあれども港はなく、周囲
          はかつて湿地帯だったということで、城下町の発展も望めません。たしかに要害の地
          ではありますが、それ以上に政治・経済上のメリットがほとんどなく、3郡の大名がここ
          に居城を移そうとすることなどあるのだろうかと、個人的には甚だ疑問です。
           加えて、村上城の丘は字館ノ内、その北麓を字館腰といいます。実際に居館が建て
          られたわけでもなく、義胤が移ったわけでもない未完の城跡の周辺にこれらの字名が
          残るのも、違和感を覚えます。あるいは、実際にはそれ以前から、貴布根神社周辺の
          峰先を利用した在地領主の小城館が営まれていたという可能性も、考えられるように
          思います。

           
 村上城跡遠望。
丘の上のようす。 
 登り口脇の1段低い耕地。
 腰曲輪か。
登り途中の水神。水の手か。 
 本丸跡の貴布根神社境内。
境内の説明板。 
 境内北辺の土塁状地形。
同じく虎口状地形。 
 その脇の削平地。


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