小高城(おだか)
 別称  : (紅梅山)浮船城
 分類  : 平山城
 築城者: 相馬重胤
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR常磐線小高駅徒歩15分


       <沿革>
           鎌倉時代末期の元享三年(1323)に行方郡へ下向した相馬重胤は、はじめ太田の
          別所館に居を置いたが、嘉暦元年(1326)に小高の堀内にを築き、次いで小高城
          を築城して移った。
           延元元/建武三(1336)、南北朝の争乱がはじまると重胤は北朝に属して鎌倉を
          守備し、北畠顕家と戦って討ち死にした。重胤の子光胤は、小高城を改修して戦に
          備えたが、同年五月に陸奥へ下向した顕家に攻め落とされた。このとき光胤も戦死
          したが、翌年に光胤の兄親胤とその子胤頼が小高を奪還した。
           豊臣秀吉による天下統一後、相馬義胤は小高城が狭小であったことから居城の
          移転を図り、まず慶長元年(1596)に村上城を築いた。しかし、殿舎を建造する段に
          なって火災で焼け落ちたため、翌二年(1597)に牛越城を修築して居城を遷した。
           関ヶ原の戦いで中立の立場をとっていたことから、慶長七年(1602)に相馬家は
          改易を言い渡されたが、同年中に所領を返還された。義胤はこの件で、牛越城を
          不吉とし、再び小高城に移った。しかし、6万石の大名相馬家の居城として、規模が
          不足であることに変わりはなく、同十六年(1611)に義胤の子利胤が中村城を取り
          立てて藩府とした。ここに、断続的とはいえ鎌倉時代末期以来300年近くにわたり、
          相馬氏が居城としてきた小高城は廃城となった。


       <手記>
           相馬氏累代の居城・小高城は、小高川沿いの鏃のような形をした舌状台地先端
          に築かれています。城内は相馬小高神社境内となっていて、車であれば東側から
          本丸まで乗り入れられるようです。
           ほとんど単郭に近い城で、東と南に申し訳程度の腰曲輪が付随しています。社殿
          北東背後には、現状で最大の遺構と思われる堀切があり、その向こうが二の丸と
          思われ、大部分が田として切り開かれているものの、高土塁が残っています。また、
          社殿の北西には虎口跡とみられる土塁の開口部があります。
           東側には、水濠の一部とされる弁天池があります。城の西側は広い水田地帯と
          なっていて、かつては低湿地だったとみられています。北ももともとは地続きだった
          と思われ、城跡にそって抜ける道路は、やはり堀跡を利用したものと推測されます。
          浮船城の別称は、こうした地理的環境から付けられたもののようです。
           全体として、方々で指摘されているとおり、小高城は大名相馬氏の居城としては
          規模が小さいと言わざるを得ません。まともな曲輪は本丸と二の丸くらいなので、
          実際には館と呼んでも差し支えないレベルといえるでしょう。もともと、浜通りには
          発達した城館がずいぶんと少ないのですが、この地域には城で戦うという意識が
          あまりなかったのかな、と興味深く感じます。

           
 西から小高城跡を望む。
 周囲の水田はかつて低湿地だったようです。
南麓の城址碑。 
 本丸南の腰曲輪跡。
相馬小高神社。 
 本丸のようす。
社殿北西の虎口状開口部。 
 その脇の土塁。 
社殿北東の堀切。 
 堀切の向こうに伸びる高土塁。
 二の丸のものか。
 堀切の本丸側の土塁。 
 社殿裏の御神水(おみたらし)舎。
 井戸跡か。
 
本丸東側の土塁。 
 本丸東側の水田跡。
 奥の土塁までが二の丸か。
その東の弁天池。 


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