田中城(たなか)
 別称  : 田中館、北郷田中城
 分類  : 平城
 築城者: 桑折元家か
 遺構  : 土塁
 交通  : JR常磐線磐城鹿島駅徒歩10分


       <沿革>
           江戸末期に編纂された『奥相志』の中館の項によれば、「往昔国司源顕家の時 桑折
          五郎元家伊達郡桑折より来り江垂館に住し真野五郎と号す 其後田中塁に移り 居る
          こと七世なり」とある。すなわち、南北朝時代に南朝の北畠顕家に従っていた元家が、
          いずれかの時期に田中城へ移住したことになる。元家は伊達家庶流桑折氏の一族と
          みられるが、詳しい系譜は定かでない。また、元家が田中城を新造したのか、もともと
          あった城館に移っただけなのかも不明である。
           天文十二年(1543)、黒木城主黒木弾正信房は、弟の中村城主中村大膳義房ととも
          に相馬氏に反旗を翻し、田中城へ攻め寄せた。城主桑折久家は激戦の末に討ち死に
          したが、この間に伊達氏と対峙していた相馬顕胤が軍を返し、黒木兄弟を襲って降伏
          させた。田中城主は久家の甥清家が引き継いだ。
           天正六年(1578)、顕胤の子盛胤は家督を嫡子義胤に譲り、三男忠次郎郷胤を伴い
          田中城に隠居した。その後、さらに盛胤は中村城へ移り、郷胤が田中城主となった。
          郷胤は北郷大将と呼ばれ、田中氏を称したともいわれる。一方で、前城主桑折氏の
          扱いについては詳らかでない。
           郷胤は慶長六年(1601)に没し、相馬家が一旦改易を言い渡される翌七年(1602)
          までの間に、田中城も廃されたものと推測される。


       <手記>
           田中城は、文字どおり水田地帯の中にある平城です。一帯は区画整理されている
          ので全容は把握しにくいのですが、三重の堀を巡らしていたということから、輪郭式に
          近い構造だったのではないかと推測されます。
           字舘ノ内には横並びに数軒の旧家があり、その北辺と西端は、そのまま曲輪の縁
          に沿っているものと思われます。旧家の門前を横断する生活道路沿いには、主郭の
          ものとされる土塁の一部が残っており、その脇には「城主田中忠次郎郷胤公之碑」と
          彫られた石碑が立っています。
           当時は相馬氏一門が住んでいたり、謀反の際の第一標的になったりと、鹿島地区
          では最も重要な拠点だったということになります。現状からはなかなか想像できない
          だけに、興味深いといえるでしょう。

           
 主郭のものとされる土塁の一部。
その脇の石碑。 
 西辺と思われる境界の段差。
同じく北西隅のようす。 
 南東側から主郭跡と思われる区画を望む。


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