木舟城(きぶね)
 別称  : 狸森城
 分類  : 平山城
 築城者: 矢部清通か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR東北本線須賀川駅またはJR水郡線
      磐城石川駅からバスに乗り、「狸森」
      下車徒歩5分


       <沿革>
           二階堂氏重臣矢部氏の居城である。矢部氏の祖は、相模原市高座郡矢部郷を領した横山氏
          の一族、三浦郡矢部郷の三浦氏一族、駿河国安倍郡矢部村地頭の矢部氏など諸説あり判然と
          しない。『矢部氏系図』によると、文安元年(1441)に矢部定清が二階堂為氏に従って須賀川へ
          下向し、4代清通が狸森城主となったとされる。ただし、暦応二/延元四年(1339)に藤原英房の
          所領であった大栗・貉森2村を横領した二階堂時藤の家人矢部又次郎を訴えた文書がみられ、
          このころすでに二階堂家臣矢部氏が狸森に拠点を構えていた可能性も指摘されている(『日本
          城郭大系』)。
           矢部氏は多くの分家や庶流を生み、戦国時代末期の木舟城主矢部下野守義政は、いわゆる
          二階堂四天王の1人に数えられた。天正十七年(1589)の須賀川城攻防戦では、籠城方に義政
          の名はみられず、伊達政宗に寝返っていたとも、木舟城に籠城していたともいわれる。いずれに
          せよ、この戦いで二階堂家が滅びると、義政は伊達家に仕えて所領を安堵された。
           遅くとも、天正十八年(1590)の奥州仕置で政宗が二階堂領を召し上げられるまでに、木舟城
          は廃城となったものと推測される。


       <手記>
           南向きの舌状の丘に築かれた城で、周辺は似たような丘陵が複雑に入り組んだ地形となって
          います。大森小学校南東の道路がカーブするあたりに駐車スペースの入口があり、城内は公園
          として整備されています。登りはじめてすぐのところに石碑が2基あり、どちらも「国破山河在」を
          前面に押し出した大作の碑文となっているのですが、来歴のとおりこの城が戦場となったことは
          史料上は一度もないため、個人的にはたいへん違和感を覚えました。
           上り詰めた先は鞍部の堀切となっています。その先には四阿のある副郭と、その上の土塁状
          になっている主郭があり、ここにも城址碑が建てられています。その下には広々とした腰曲輪や
          帯曲輪が2〜3段連なっているのですが、このあたりは耕作地となっていたということで、どこまで
          が遺構かははっきりとしません。
           1つ気になるのは須賀川城攻防戦における矢部義政の動向です。籠城に加わっていなかった
          のが事実とすれば、佐竹勢がすでに援軍として須賀川入りしている状況で、木舟城を守っていた
          というのは伊達軍の侵攻ルートからみて不自然に感じます。木舟城にいたかどうかは別として、
          やはり伊達方に内応していたと考えるのが、妥当なように思います。

           
 登城口にある石碑。
同上。 
 夜はイルミネーションがあるのでしょうか?
虎口状地形。 
 鞍部の堀切。
最後尾の堀切。 
 副郭のようす。
副郭にかぶさる主郭土塁。 
 主郭のようす。
主郭の石碑。 
 腰曲輪。
帯曲輪のようす。 
 同上。
同上。 
 付け根側の腰曲輪を望む。


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