長沼城(ながぬま) | |
別称 : 千代城、牛が城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 長沼氏か | |
遺構 : 曲輪、石積み、土塁、堀 | |
交通 : JR東北本線須賀川駅からバスに乗り、 「長沼小学校」下車徒歩5分 |
|
<沿革> 文応元年(1260)に長沼隆時が築いたとも、長沼氏が南北朝時代に拠ったともいわ れるが、確証はない。下野小山氏の有力支族に長沼氏があり、岩瀬郡に近い陸奥国 長江荘を領して後に下向した一族があるが、長沼築城と関連があるかは不明である。 戦国時代中期以降、長沼は須賀川二階堂氏と会津の蘆名氏との係争の地となり、 その過程で城が整備されていったものと推測される。天文六年(1537)の『塔寺八幡 長帳』には「松山御せいはい(成敗)」とあり、蘆名盛氏が二階堂氏の松山城を攻め たものとされている。松山城は長沼の東方にあるため、長沼城は蘆名氏に奪われて いたものと推測される。 『異本塔寺長帳』には、永禄八年(1565)のこととして「会津軍平仙道長沼城代須田 氏攻ル 能防 故無利帰ル」とあり、このときまでに長沼城は二階堂氏の所有に帰して いたことがうかがえる。 翌永禄九年(1566)二月、盛氏が横田館を攻め落としたことにより、二階堂盛義は 嫡男を人質に差し出して蘆名氏に従属した。これに先だって長沼城も攻め落とされた ものとみられる。その後、蘆名家臣新国貞通が長沼城将として入った。 『伊達家文書』所収の天正四年(1576)八月二十一日付の盛氏書状には、佐竹・ 田村連合軍に囲まれた長沼城を救援するため、伊達輝宗に鉄砲の支援を要請する 旨が記されている。同十七年(1589)に蘆名氏が輝宗の子政宗に攻め滅ぼされると、 新国氏は伊達氏に降って所領を安堵された。 その伊達氏も、翌十八年(1590)の奥州仕置によって所領を召し上げられた。この とき、奥州に入った豊臣秀吉が長沼城に宿営している。会津は蒲生氏郷に与えられ、 蒲生郷安ついで蒲生郷貞が長沼城主となった。 慶長三年(1598)に上杉景勝が新たな会津領主となると、信州長沼城主であった 島津忠直が陸奥長沼城に移された。同五年(1600)の関ヶ原の戦いに臨んで、城は 最終的な改修を受けたとみられている。 戦後に蒲生家が復帰すると、蒲生郷治ついで玉井数馬介が長沼城主となり、元和 元年(1615)の一国一城令により廃城となった。 <手記> 長沼市街に臨んで、まるで城を築くために生えてきたかのように伸びている形良い 峰が、長沼城跡です。長沼小学校裏手の坂下郭跡に、登城口と説明板、そして駐車 スペースが設けられています。 近世まで使用されていたことから、主城域の曲輪などの遺構はよく残っていますが、 夏場とて少々下草の繁茂が気になりました。冬から春先にかけては問題なく見学でき ると思いますが、本丸背後の曲輪群については、下りての踏査は断念しました。 それでも主郭背面の石積みを伴った土塁や、北辺の高く急斜面の切岸などは見応え がありました。地勢的には鎌倉時代から何らかの施設があったとしてもおかしくはなく、 長い歴史を持つ城として、また機会があればじっくりと探索してみたいところです。 |
|
南西から長沼城跡を望む。 | |
先端の稲荷郭跡。 | |
本丸前方下の東三の丸跡。 | |
その脇の虎口跡。 | |
東櫓ないし東二の丸と呼ばれる曲輪跡。 | |
本丸虎口。 | |
本丸のようす。 | |
本丸背面の石積みを伴う土塁。 | |
同じく本丸と(西)二の丸の間の 石積みを伴う土塁。 |
|
本丸北辺の切岸。 | |
(西)二の丸を望む。 |