和田館(わだ) | |
別称 : 和田城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 須田氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口跡 | |
交通 : JR水郡線川東駅徒歩10分 | |
<沿革> 二階堂家家老須田氏惣領累代の居城とされる。須田氏は、建久七年(1196)に須田 美濃守秀範が奥州合戦での功により岩瀬郡に下向して、和田城に入ったのがはじまり とされる。秀範の出自については詳らかでなく、和田城がすでに存在したのか、秀範に よって築かれたのかも定かでない。 15世紀半ばに、二階堂為氏が須賀川代官二階堂治部らの反乱を鎮圧するため下向 すると、和田城主須田美濃守秀一は為氏に協力した。為氏はそのまま土着し、須田氏 は須賀川二階堂家の家老となった。 天正九年(1581)に二階堂盛義が没し、その子行親もまもなく亡くなると、盛義未亡人 の阿南姫が家督代行となり、須田盛秀が実質的な須賀川城代を務めた。天正十七年 (1589)、蘆名家を滅ぼした伊達政宗が伯母にあたる阿南姫に降伏を勧告すると、盛秀 は阿南姫とともに強硬に反対した。同年に伊達勢が攻め寄せると、盛秀らは須賀川城 に籠城して徹底抗戦したが、敗れて二階堂家は滅亡した。盛秀は和田城に退いたもの の、城に火を放って佐竹家を頼り落ち延びた。このとき、和田城で戦いがあったとする 文献もあるが、一次史料からは確認できない。そのまま、和田館は廃城となったものと みられる。 <手記> 和田館は、阿武隈沿いに細く伸びる丘陵の先端部分に築かれています。現地に碑や 説明板などはありませんが、北東麓から城内に通じる谷筋の道があります。登った先の 右手が主郭で、左手は物見台と呼ばれる小ピークとなっています。物見台は部分的に 人工的な段差が見られるものの、頂部の削平は甘く、本当に物見をするだけ、あるいは なんらかの倉庫や施設が置かれただけの空間と考えるのが適当でしょう。 主郭は周囲が切岸となっていて、虎口とみられる開口部も確認できます。郭内は広く、 ここに平時の居館も置かれていたのではないかと思われます。北辺は一部折れが設け られていて、それなりに曲輪形成がきちんとなされていた様子がうかがえます。 主郭背後は、緩やかながら比較的規模の大きな堀切となっています。堀沿いの主郭 後部には塚状の地形も見受けられ、おそらく古墳を利用した櫓台ないし物見台だったの でしょう。 和田館の南東500mほどのところには伏見館があり、一般には両者を合わせて広義の 和田城を成していたと考えられています。ただ、伏見館の堀や土塁の方が直線的である ことから、そちらが主たる須田氏の居城だったと見る向きもあるようです。 たしかに、伏見館の方が幾何学的な構造をしてはいます。しかしながら、全体的な広さ や堀の規模などを比べると、私はやはり和田館が中心で伏見館は支城とするのが妥当 なように感じます。ちなみに、両城の間には弘法大師が彫ったと伝わる和田大仏があり、 周辺がかなり古くから開かれた土地であったことは、間違いないでしょう。 |
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主郭の切岸。 | |
主郭の虎口跡か。 | |
主郭内のようす。 | |
主郭北辺の切岸。 | |
主郭北辺の横矢状の折れ。 | |
主郭後部の塚状地形。 古墳を利用した櫓台か。 |
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主郭背後の堀切。 | |
物見台のようす。 | |
物見台の人工の段差。 | |
谷筋の登城路。 |