八幡山城(やはたやま)
 別称  : 八幡城
 分類  : 山城
 築城者: 伊勢盛時か
 遺構  : 削平地
 交通  : JR静岡駅徒歩20分


       <沿革>
           築城時期については諸説あり定かでない。最も古いのは、現地説明板にある応永十八年
          (1411)に、駿河守護今川範政が駿府に入った際に、周縁防衛の砦として築いたとするもの
          である。
           文明八年(1476)に範政の嫡孫・義忠が遠江国で戦死すると、その遺児・龍王丸と範政の
          末子・小鹿範頼の子・範満の間で家督争いが勃発した。このとき、範満方の援軍として介入
          してきた扇谷上杉定正の家宰・太田道灌が、八幡山に陣を布いたともいわれる。このときは、
          龍王丸の母・北川殿の弟で幕府の奉公衆であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)が下向し、
          範満を龍王丸が成人するまでの家督代行とすることで一応の落着を見た。八幡山城は範満
          監視を目的として新九郎が築いたのがはじまりとする説もある。また、新九郎は八幡山麓に
          居館を設けたともいわれるが、実際には交渉の成立を受けて幕臣として京へ帰還している。
           範満は龍王丸が15歳になっても家督を返そうとしなかったため、北川殿は再び弟を頼った。
          再度下向した新九郎は兵を集めて駿府を急襲し、範満を討ち果たしたが、八幡山城の扱いに
          ついては不明である。
           その後も駿府防衛の砦群の1つとして存続したとみられ、永禄十二年(1569)に駿河へ侵攻
          した武田信玄も引き続き使用したといわれるが、確証はない。


       <手記>
           八幡山は静岡駅の南東にある独立山で、南麓には山名の由来とみられる八幡神社が鎮座
          しています。市街地の中にある緑の丘ということで、山上は八幡山公園として整備されており、
          地形の大きな改変がみられます。
           ただし、それを差し引いても造作の乏しい城砦だったようで、東西2つの小ピークから成って
          いるものの、その間の鞍部に堀切や曲輪が設けられた形跡はなく、自然地形となっています。
          2つの頂部も削平はされているものの、曲輪形成とまではいえないため、遺構なのか公園化
          によるものか定かではありません。
           私が歩いたなかでは唯一、南東尾根の遊歩道脇に腰曲輪群ではないかとみられる平場が
          並んでいるのが見受けられました。すぐ南には今川氏重臣・福島氏の持ち城とされる有東砦
          があるものの、八幡山についてはのっぺりした山で城砦としては使い勝手が悪く、小鹿範満の
          乱以降はほとんど顧みられなかったのではないかと推察されます。

           
 有東砦跡から八幡山を望む。
西尾根の平場。 
遺構かは不明です。 
 西のピークのようす。
西のピークの説明板。 
 西のピークの城址碑。
2つのピーク間の鞍部。 
 東のピークのようす。
東のピークから富士山を望む。 
 南東尾根の平場。
 腰曲輪跡か。
同上。 
 八幡神社。


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