三枝氏館(さえぐさし)
 別称  : 三枝土佐守宅、三枝氏屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 三枝氏
 遺構  : 土塁
 交通  : JR中央本線韮崎駅よりバス
       「多麻郵便局」バス停下車

       <沿革>
           現在の信光寺付近を小字中屋敷と呼び、三枝氏の屋敷があったところとされている。
          信光寺は、源頼朝に従って活躍した武田信光の菩提寺で、もともと塩川の対岸にあって
          荒廃していたものを、三枝氏が今の位置に移して再興したとされる。
           三枝氏は甲斐国きっての古代名族として知られるが、中世に入って一度没落し、戦国
          時代に武田信虎の命で庶流の石原守綱がその名跡を継いだ。しかし、三枝氏の居館
          今の中央市木原に置かれていたとされ、東向の館がいつごろ誰によって築かれたのか
          は定かでない。
           旧明野村教育委員会による屋代氏居館跡の説明板によれば、慶長十九年(1614)に
          巨摩郡1万5千石を屋代勝永、真田信尹と三枝平右衛門昌吉の3人で分割したとされ、
          昌吉は東向に居館を構えたとある。昌吉は守綱の孫にあたり、後に徳川忠長の附家老
          となったが、昌吉の子守昌の代に主君忠長と共に改易となった。説明板が正しければ、
          三枝氏館は慶長十九年に築かれ、忠長が改易された寛永九年(1632)に廃されたこと
          になる。その場合、館や屋敷というよりは、陣屋という表現の方が正しいと思われるが、
          詳細は不明である。


       <手記>
           三枝氏館は、信光寺付近にあったというほか、詳しい位置は不明です。付近は集落
          や水田となっており、境内も含めて遺構らしきものは見当たりません。
           信光寺の南西にある八幡神社には、本殿裏に明確な土塁があります(『大系』には
          信光寺の東とありますが、おそらく誤記と思われます)。この神社は、塩川の河岸と、
          支脈の小流に挟まれた舌状の突端に位置し、小規模ながら要害地形を成しています。
          ただ、もし三枝氏がこの地に居館を築いたのが慶長十九年だとすれば、八幡神社の地
          を選ぶことはほぼあり得ないのではないかと考えられます。ここはいたって中世的で、
          近世の陣屋が置かれるような立地ではありません。このことは、同時期に設けられたと
          される真田氏館や屋代氏館の選地と比べても明らかと思われます。
           したがって、近世の三枝氏の屋敷は信光寺にほとんど隣接して置かれていたのでは
          と推察されます。そうなると、八幡神社の遺構は一体なんなんだということになりますが、
          こちらは立地や規模からみて、少なくとも武田氏の滅亡や天正壬午の乱のあった天正
          十年(1582)以前のものとみるべきなのではないかと考えています。すなわち、武田氏
          時代の東向の領主の城館とみるのが妥当と思われます。武田家臣だった頃の三枝氏
          もこの地を領していたという可能性もなくはないですが、確たることは不明です。

           
 信光寺。
八幡神社。 
 八幡神社境内のようす。
本殿裏の土塁。 
 八幡神社の西端を流れる小流。
八幡神社前から信光寺を望む。 


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