大可島城(たいがしま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 渡辺房
 遺構  : 石垣、曲輪跡
 交通  : JR福山駅からバスに乗り、
      「鞆港」下車徒歩5分


       <沿革>
           鞆の浦は古くから風待ちの港として知られ、建武三年(1336)には足利尊氏がここで光厳上皇から
          新田義貞追討の院宣を得ている。康永元/興国三年(1342)、伊予川之江城の救援に向かっていた
          伊予国内の南朝勢は、船団が風に煽られて鞆へ流れ着いた。岡部出羽守ら一行は備後の南朝方と
          計らって大可島に砦を築き、まもなく備後の北朝勢が攻め寄せた。このとき、伊予衆の多くは本国の
          戦場へ帰投していたこともあり、城兵は悉く討ち死にしたとされる。
           貞和五/正平四年(1349)には、観応の擾乱に際して足利直冬が長門から上洛を試みたが、播磨
          の赤松円心に阻まれ鞆に留まり、態勢の充実を図った。しかし、高師直の命令を受けた杉原又三郎ら
          200余騎に大可島城を急襲され、防戦したものの海路を九州へと逃れた。その後、大可島城の動静は
          一時途絶えることになる。
           天文十三年(1544)、鞆は大内氏から因島村上吉充に与えられ、吉充の弟・亮康が大可島城を本拠
          として在城した。同二十二年(1553)には、毛利元就が在地の一乗山城主・渡辺出雲守房に命じて
          「鞆要害」を築かせている(「渡辺房宛元就書状」『渡辺三郎左右衛門家譜録』)。同二十年(1551)に
          大内義隆が大寧寺の変で陶隆房に攻め滅ぼされると、隆房に協力していた元就は村上氏と直接戦火
          を交えることは避けつつ、鞆の浦の利権を確保しようとしたものと推測される。亮康が眼前の鞆要害に
          どのように反応したかは不明だが、兄・吉充が同二十四年(1555)の厳島の戦いで毛利方として参戦
          するまでには、亮康も毛利氏に帰属していたものと推測される。
           天正四年(1576)、織田信長に追放されて浪々の公方となっていた足利義昭は、毛利氏を頼り鞆へ
          下向した。毛利輝元は鞆要害を義昭の居所として整備し、亮康や渡辺氏を警固に当たらせた。即ち、
          大可島城は鞆城とは別個に、亮康の持ち城として残っていたとみられている。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いによって毛利氏が防長2国へ減封されると、因島村上氏は主家に
          従って周防国三田尻へと移った。代わって芸備2国を与えられた福島正則は、鞆城を有力支城の1つ
          として大きく改修し、それまで島であった大可島城はこのとき陸続きとなったとされ、このときに鞆城や
          城下町の一部に組み込まれて廃城となったものとみられる。


     <手記>
           鞆の浦の港を抱え込むように突き出た陸繋島が大可島城跡です。上述の通りかつては島でしたが、
          福島正則が鞆城を拡張した際に地続きとされたようです。今では両サイドに桟橋や船着き場があり、
          先端には防波堤が延びています。
           本丸跡は圓福寺境内となっていて、説明板が設置されています。『日本城郭大系』にもある通り周辺
          の平場は曲輪跡のように見えるのですが、いかんせん全域が開発されているうえ、建物が密集して
          いるのでそもそも自由に歩けません。元は島の水軍城だったのであれば、おそらく堀などは設けず、
          削平地と並べただけの構造だったものと推察されます。
           鞆の市街からは外れているので、瀬戸内海の眺めや潮風を楽しむのもよいでしょう。ちなみに現地の
          説明板によれば、「たいがしま」の他に「おおがしま」の読みもあるようです。

 鞆城跡から大可島城跡および鞆の浦を望む。
本丸跡の圓福寺。 
 境内の説明板。
城山現況。 
 圓福寺から瀬戸内海を望む。
大可島城跡付近から鞆城跡を望む。 


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