鞆城(とも) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 渡辺房 | |
遺構 : 石垣、曲輪跡 | |
交通 : JR福山駅からバスに乗り、 「鞆港」下車徒歩5分 |
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<沿革> 天文二十二年(1553)、毛利元就が在地の領主である渡辺出雲守房に命じて築かせた「鞆要害」 が前身と考えられている(「渡辺房宛元就書状」『渡辺三郎左右衛門家譜録』)。当時、鞆の浦には 大内氏に従う村上水軍の大可島城があり、同二十年(1551)に大内義隆が大寧寺の変で陶隆房に 攻め滅ぼされると、隆房に協力していた元就は村上氏と直接戦火を交えることは避けつつ、鞆の浦 の利権を確保しようとしたものと推測される。 天正四年(1576)、織田信長に追放されて浪々の公方となっていた足利義昭は、毛利氏を頼って 鞆の浦へ下向した。鞆はかつて足利尊氏が新田義貞追討の院宣を受けた、足利将軍にとって縁起 の良い地であると見られたのも動座の理由とされる。毛利輝元は鞆要害を義昭の居所として整備し、 渡辺房や次男の元は、渡辺氏の居城である一乗山城から義昭の警固を任された。 義昭は京を離れた後も将軍職は返上せず、代わりの将軍も任命されなかったため、鞆滞在中を して「鞆幕府」とも呼ばれるが、実効性については疑問が持たれている。天正十五年(1587)、義昭 は天下人となった関白・豊臣秀吉と和解し、鞆を出ていったん沼隈郡津之郷へと移り、同年十月に 京への期間を果たした。 鞆の浦の重要性から鑑みて、その後も鞆城には毛利氏の在番が置かれたと推測されるが、詳細 は不明である。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いによって毛利氏が防長2国へ減封されると、福島 正則が芸備2国を与えられた。正則は鞆城を有力支城の1つとして大きく改修し、大崎玄蕃長行が 城主に任じられた。慶長十二年(1607)の朝鮮通信使の日記には、普請が続けられるも完成して いなかった旨が記されている。 しかし、鞆城改修を知った徳川家康の不興を買ったため、慶長十四年(1609)ごろに未完成のまま 工事が中断されたといわれる。また、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、3層の天守が 三原城へ遷されたとも伝えられが確証はない。 元和五年(1619)に福島家が改易となると、譜代の水野勝成が備後国内に10万石を与えられた。 勝成は福山城の築城に着手し、一方で長男の勝俊を鞆城三の丸に住まわせた。そのため、勝俊は 「鞆殿」と尊称されたという。勝俊が福山藩主となった後は、城山の北麓に奉行所が置かれた。 <手記> 鞆の浦は今も旅館や商家などが多く集まり、風光明媚な港町として人気の観光地です。その港を 見下ろすようにせり出した小丘が鞆城跡で、山頂の本丸跡には歴史民俗資料館が建っています。 本丸からの眺望は素晴らしく、都を離れた足利義昭も、この美しい景色を見て何をか思わんといった 感じです。 資料館の東側下には城跡の石垣を積み直した箇所があり、石材には「回・大・△」といった刻印が 見られるそうです。また、その上の地下駐車場床面には、石垣のラインが示されています。本丸の 西側1段下が二の丸で、さらにその西下の地蔵院付近が三の丸です。付近には石垣が散見される ものの、鞆城跡の石垣は寺院や町屋の建材として多く転用されているようで、どこまで遺構なのか は判別が困難です。 |
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大可島城跡付近から鞆城跡を望む。 | |
本丸跡に建つ歴史民俗資料館。 | |
本丸跡の説明板。 | |
二の丸跡のようす。 | |
鞆城跡から大可島城跡および鞆の浦を俯瞰。 | |
資料館東下の復元石垣。 | |
同じく地下駐車場床面に示された石垣ライン。 |