川之江城(かわのえ)
 別称  : 仏殿城
 分類  : 山城
 築城者: 土肥義昌
 遺構  : 石垣、曲輪跡
 交通  : JR予讃線川之江駅徒歩20分


       <沿革>
           南北朝時代の建武四/延元二年(1337)、伊予守護河野氏の砦として家臣土肥義昌に
          よって築かれたのが始まりとされる。山上にはもともと天台宗の僧源信(恵心僧都)が開基
          した仏堂があったが、義昌はこれを遷さず城内に引き続き安置したことから、仏殿城の別称
          が生まれたとされる。
           現地説明板などでは河野氏は南朝とされているが、当時の当主河野通盛は、この時点
          では明確に北朝に属していた。そのころ南朝方にいたのは、河野氏一族のうち得能氏や
          土居氏である。
           康永元/興国三年(1342)、伊予国の南朝勢力を指揮していた脇屋義助が急死すると、
          北朝の細川頼春が川之江城に攻め寄せた。義昌らは籠城したものの、10日ほどの攻防戦
          の末に落城した。河野氏はその後細川氏と対立して南朝に転じたが、川之江城の動向に
          ついては定かでない。
           戦国時代後期には、河野家臣妻鳥采女友春が城主となっていた。友春は長宗我部氏に
          寝返ったため、川之江城は河野氏の命を受けた河上安勝によって攻め落とされた。少なく
          とも天正六年(1578)に長宗我部元親が白地城を奪って以降のことと推察されるが、明確
          な時期は定かでない。
           同十年(1582)には、長宗我部氏に攻められ落城した。この戦いには、「姫ヶ嶽」にまつ
          わる以下のような伝承がある。伊予轟城主大西備中守元武と内通していた河上家臣秋山
          嘉兵衛は、三島宮に参詣していた安勝を暗殺し、大西勢を城へ招き入れた。安勝の娘の
          年姫は、父の後を追って城内の断崖から海へ身を投げて自害したとするものである。ただ、
          一般に元武は同五年(1577)に元親に攻められ自害したとされる。元武による川之江城
          奪取を同四年(1576)のこととする説もあるようだが、やはり元武戦死の経緯との整合性に
          疑問が生じる。
           天正十三年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉が四国平定に乗り出すと、同年8月に川之江城は
          羽柴勢の小早川隆景軍に攻め落とされた。その後の川之江城の扱いについては詳らかで
          ない。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより、加藤嘉明が伊予20万石に加増されて以降
          に廃城となったともいわれる。
           寛永十三年(1636)、伊勢神戸藩主一柳直盛が6万8千石で伊予西条藩へ転封となった
          が、同年に所領へ赴く途中で病没した。直盛の遺領は3人の子で分配され、次男直家が
          宇摩郡など2万8千石を継いだ。直家は川之江城を再興しようとしたものの、断念して麓に
          川之江陣屋を建設した。

       <手記>
           川之江市街を流れる金生川は、かつては港通から国道11号線沿いに北上して、川之江
          の内港に注いでいました。すなわち、川之江城は三方を水に囲まれた河口突端の独立丘
          の城だったことになります。
           城跡は現在城山公園として整備されていて、本丸には立派な天守閣や櫓門、塀などが
          建てられています。ただし、これらはすべて考証を経ていない模擬で、曲輪平坦面の上に
          さらに新しい石垣を築いているようです。
           資料にはたいがい石塁の一部が残るとあるのですが、こうして新規の石垣が本丸周囲
          を覆っているうえに現地にはどれが現存石垣なのか示されていないので、見つけるのに
          ひと苦労でした。おそらく、天守閣東辺下と本丸南東隅のものは、とりあえず古い石垣と
          思われます。遺構の石塁も、新しい石垣に劣らず石の表面が滑らかで光沢を放っている
          のも、分かりにくさに拍車をかけています。
           その他の遺構については判然としません。本丸の北に伸びる尾根の広場も曲輪の跡と
          思われますが、全体の構造を把握するのはなお困難です。石垣の技術をみるに長宗我部
          氏以前のものとは考えにくく、最終的な改修者は加藤嘉明ではないかと拝察されます。
           ところで、前述の通り川之江城は南朝方の河野家臣土肥義昌によって築かれたという
          のが定説化しています。ですが、当時の河野氏は北朝方だったので、矛盾が生じます。
          細川頼春に攻められていることから義昌自身は南朝の将だったのでしょうが、その主君は
          少なくとも落城時には河野氏ではなかったことになります。この矛盾をどう説明しようかと
          考えたとき、ふと義昌は土肥氏ではなく土居氏なのではないかという思いつきが浮かび
          ました。河野氏庶流で南朝に属した土居氏が築いたというならあり得る話であり、義昌は
          土居通増・通重父子の縁者ないし郎党と考えれば、一応の辻褄は合います。また、通増
          らの土居氏の本貫地は現在の松山市土居町とされていますが、これとは別に、宇摩郡
          には旧土居町があり、今もJR予讃線に伊予土居駅があります。あるいはここを本貫地と
          する別の土居氏がいたのかも…とも考えられます。

 川之江城模擬天守閣。
別アングルから。 
 天守閣からの眺望その1。
その2。 
 その3。
 四国中央市といえばの製紙工場の煙突が並びます。
本丸南西隅の石垣。 
 天守閣東辺下の石垣。
立派な模擬城門。 
 北の尾根先の広場。
 副郭跡か。
姫ヶ嶽の説明板。 


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