多治比猿掛城(たじひさるかけ)
 別称  : 猿掛城、多治比城
 分類  : 山城
 築城者: 毛利弘元か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 中国自動車道高田ICから車で10分


       <沿革>
           明応九年(1500)、嫡男・興元に家督を譲った毛利弘元は、当時4歳の次男・松寿丸を連れて
          (旧)郡山城から多治比城へ移った。多治比保は弘元の代に毛利領になったとされ、多治比城
          を築いたのも弘元とみられているが、確証はない。
           永正三年(1506)に弘元が没すると、翌四年(1507)に松寿丸の後見役であった井上元盛が
          多治比保を横領し、松寿丸を城から追い出した。松寿丸は弘元の継室・杉大方に引き取られ、
          大方を養母として養育された。同八年(1511)に元盛が急死すると多治比領を返還され、同年に
          大方の斡旋を受けて元服し多治比元就と名乗った。
           永正十三年(1516)に興元が、大永三年(1523)にその遺児・幸松丸が早世すると、重臣らに
          推挙されて元就が毛利氏の家督を継承した。郡山城へ移った毛利元就は、やがて中国の覇者
          へとのし上がっていくことになる。
           元就移城後も、多治比城は郡山城の支城として改修・維持されたとみられている。永禄六年
          (1563)七月十日には、元就の嫡男・隆元が父の尼子攻めに加わる際に多治比城へ立ち寄り、
          嫡男・幸鶴丸(後の輝元)を郡山城から呼び寄せた。同月十二日に多治比城を発った隆元は
          佐々部の蓮華寺を宿所として軍備を整えていたが、八月三日に和智誠春の饗応を受けた帰り
          に病を発し、翌朝に急死した。
           多治比城は吉田郡山城と同時期に廃城となったと推測されるが、詳細は不明である。


       <手記>
           毛利元就が4歳から27歳まで(数え)を過ごした多治比猿掛城は、吉田郡山城の西方約4km
          の場所にあります。多治比猿掛城とは国史跡としての指定名で、一般には猿掛城と呼ばれる
          ものの、当時の史料には「多治比御城」と書かれているようです。元就も「多治比殿」と称され
          ていたことから、上述の通り記事内では多治比城としました。ちなみに、猿掛城の呼称は江戸
          時代に登場したそうです。
           多治比城は本丸域と出丸、寺屋敷曲輪群、そして物見丸の大きく4つのエリアに分けることが
          できます。弘元墓所前に車を止め、教善寺脇から登城路に入ると、まず寺屋敷曲輪群が現れ
          ます。ここは本丸と出丸の中間斜面に位置し、名前の通り複数の腰曲輪が連なっていますが、
          独立性には欠けています。教善寺がいつからあったかは不明ですが、寺院に伴う屋敷ないし
          根古屋があったのでしょう。
           その先端側のピークにあたる出丸には、数段の曲輪や土塁が見られます。ここを平時の館と
          する向きもあるようですが、各曲輪は居館施設を置くほど広くはありません。『日本城郭大系』に
          あるように、出丸自体が独立性の高い小丘であるため、弘元が移った当初の多治比城はこの
          出丸部分であり、後に本丸域が拡張されたと考えるのが自然に思えます。
           寺屋敷曲輪群から大きな竪堀沿いの登山道を上がると、やがて本丸域に至ります。本丸は
          櫓台状の土塁を前方に具えているものの、他は周囲に腰曲輪を設けている程度で規模的には
          さほど大きいとはいえません。ただ、刮目すべきはその背後尾根にある空堀群でしょう。乱雑に
          引っ掻いたような竪堀が横並びに連なり、実用性はさておいて特徴的な景観を成しています。
           物見丸は空堀群から比高約50m、距離にして400mほど稜線を登った先にあります。小ピーク
          を利用した単郭の平場で、前後に堀切を設けているものの戦闘能力はさして感じられません。
          ここで、多治比城の本丸からは旧郡山城が微かにしか望めませんが、物見丸からは城下まで
          視界に収めることができます。また西に目を転じると、やはり本丸からは見えない多治比川の
          上流域が望めるため、眺望を補う目的で設けられたことは明白でしょう。一方、本丸から郡山
          の山頂はくっきり見えるので、前述の推察が正しければ、物見丸が築かれたのは吉田郡山城
          の全山拡張前と考えられます。
           このように、多治比猿掛城は広範囲に良好な遺構が見られ、かつ国史跡とて見学路も整備
          されています。若き日の毛利元就の故地として、吉田郡山城とはセットで訪れるべき城跡だと
          いえるでしょう。

 北東から多治比猿掛城跡を望む。
同じく北西から。 
右手頂部が本丸域で、左手が出丸。 
 寺屋敷曲輪群。
同上。 
 同上。
寺屋敷曲輪群から本丸域へ向かう途上の竪堀。 
 本丸下の腰曲輪および虎口か。
本丸下の腰曲輪。 
 同上。
本丸と櫓台状土塁。 
 本丸後部のようす。
本丸から郡山を望む。 
 本丸背後の堀切。
同上。 
 竪堀群。
竪堀が二又に分かれている箇所。 
 畝状竪堀。
本丸域最後尾の堀切。 
 そこから延びる竪堀。
物見丸前方の堀切。 
 物見丸のようす。
物見丸背後の堀切。 
 同上。
出丸の土塁。 
 同土塁を上から。
出丸で最も大きな曲輪。 
 出丸頂部の櫓台状土塁を望む。


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