建部城(たけべ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 建部氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : 近江鉄道河辺の森駅徒歩20分 | |
<沿革> 在地領主建部氏の居城と伝わる。建部氏の出自は、日本武尊(倭「建」命)の名代部の略称と される古代豪族といわれる。現在の大津市神領にある建部大社は建部氏の氏神であり、もとは 五個荘伊野部町の建部神社の地にあった。建部大社遷宮は7世紀のこととされるが、その後の 古代建部氏の動向については明らかでない。 建部城を築いたとみられる中世建部氏は、佐々木氏の一族とされる。六角佐々木時信の曾孫 詮秀にはじまるとする系図もあるが、古代建部氏との関係も含めて詳細は不明である。 永禄十一年(1568)、建部秀清(秀治)が上洛を目指す織田信長と六角氏との戦いで討ち死に している。また同年の観音寺城の戦いでは、秀清の弟ともいわれる建部源八郎秀明が箕作城 の守将を務めたが、敗れて落去した。 その後、秀清の次男寿徳(高光)が信長に召し抱えられた。寿徳は、織田一族の中川重政の 代官となったが、重政失脚後は丹羽長秀、ついで羽柴秀吉に仕えた。信長からは守山に500石 を与えられ、秀吉時代には尼崎郡代となっているため、寿徳が建部に所領や城館をもっていた 可能性は低いと思われる。 秀明の子伝内賢文(堅文)は、近江三能筆に数えられた能書家で、賢文の子昌興は徳川家康 に祐筆として仕えた。『滋賀県百科事典』には、賢文は秀清の弟で生年は1522年とあるが、これ が正しいとするなら、1580年生まれの昌興は賢文58歳のときの子ということになり、不可能では ないが不自然に感じる。1522年は、賢文の父秀明の生年とみる方が妥当なように思われる。 いずれにせよ、建部氏には永禄十一年時点で2系統あったことになる。同じ東近江市内には、 もう1つ五個荘木流町にも建部城があり、これら2系統が両立していたとも考えられるが、詳細は 不明である。 <手記> 1.5qほど離れて2つ存在した建部城は、かつては五個荘町内と八日市市内に分かれていた ため混乱は少なかったと思われますが、平成の大合併で両市町とも東近江市に新設合併した ことにより、同一市内に2つの建部城址が併存することになりました。これにより、五個荘建部城 ・八日市建部城などと区別して呼ぶ必要があるように思うのですが、今のところそのような動きは 出ていないようです。一般には、単に建部城というと、五個荘の方を指す場合が多いようです。 八日市の建部城は、五個荘の建部城よりも建部神社に近く、住所も建部町内にあるため、より 建部らしい建部城といえるように思います。箕作山と愛知川の間に広がる氾濫原に築かれた城 で、とくに要害性はみられない館城であったと思われます。建部上中町集落と天神社の間付近 が城跡とされていますが、きれいに圃場整備されていて遺構はありません。道路脇に、八日市 市長の名の刻まれた「建部の郷」碑があり、城址碑ではないものの、唯一それらしいモニュメント といえます。八日市市長の名でずいぶん立派な石碑が建てられているあたり、旧五個荘町との 間で本家・元祖論争があったのかな?と勘繰りたくなってしまいました。 五個荘建部城は、建部伝内の居城と伝えられており、これにしたがうなら、こちらの建部城は 秀清ないし寿徳の城とも考えられます。その他いくらでも想像ははたらきますが、所詮は推測に すぎないので、真相は闇の中です。 |
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「建部の郷」碑。 |