滝川氏城(たきがわし) | |
別称 : 滝川城、小波田城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 滝川三郎兵衛 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 近鉄大阪線美旗駅徒歩20分 | |
<沿革> 天正九年(1581)九月の第二次天正伊賀の乱を経て伊賀国が織田氏に平定されると、 同国の大半を与えられた織田信長の次男北畠信意(後の織田信雄)は、重臣滝川三郎 兵衛(雄利)に支配を任せた。滝川氏城は、このときに隣接する桜町中将城とともに整備 されたものとみられる。同年十月十二日には信長自身が伊賀を巡検し、「小波多」に立ち 寄ったことが『信長公記』に記されており、両城のどちらかで休息したものと推測される。 天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いにより、信雄が伊賀を失うときまでに廃城と なったと思われるが、詳しい経緯は不明である。 <手記> 滝川氏城跡は運動公園となっており、北西辺に駐車場も用意されています。桜町中将 城も、こちらに停めてあるいて訪ねるのが無難でしょう。 形式は土塁と堀に囲まれた方形の典型的な伊賀式城館ですが、グラウンドが作れる ほどの広大な郭内が一番の特徴です。伊賀国内でこれほどの面積の曲輪をもつ城館は 他にないのではないでしょうか。一方の桜町中将城は主郭が比較的狭小で、おそらくは 既存の土豪の城館を増改築したものと推察されます。 したがって、滝川氏城については滝川雄利によって新造されたと考えられ、もし信長が 巡検に訪れた天正九年十月までに主要部分ができていれば、実際に休息したのは狭い 桜町中将城ではなく、こちらの滝川氏城ではないかと個人的に考えています。雄利自体 は丸山城に居城したとも推測されており、その場合、滝川氏城には主に代官所としての 政務施設が置かれていたのでしょう。 |
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南東麓から滝川氏城跡を望む。 | |
駐車場脇の説明板。 | |
北西辺の土塁。 | |
城内のようす。 | |
南東辺の虎口。 | |
南東辺の堀と土塁。 | |
南西辺の横堀と土塁。 | |
虎口先の出郭。 | |
出郭南側の虎口跡。 | |
北東辺の土塁上から空堀を見下ろす。 | |
駐車場付近からの眺望。 |