丸山城(まるやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 北畠(織田)信雄 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、櫓台、虎口 | |
交通 : 伊賀鉄道丸山駅徒歩10分 | |
<沿革> 天正三年(1575)、織田信長の次男信意(後の信雄)に家督を譲った北畠具教は、隠居城 として丸山築城を企図した。現地の土豪らを説得し、翌四年(1576)正月から普請にも入った が、信長の不興を買って計画は頓挫した。同年十一月、具教は信意によって伊勢三瀬館で 殺害された(三瀬の変)。 天正六年(1578)二月に伊賀郷士下山甲斐守が伺候したのを機に、信意は伊賀の領国化 を図って家臣滝川三郎兵衛友足(後の雄利)に丸山築城を命じた。これに対して、伊賀郷士 11名は平楽寺に集まり、完成前に攻撃することを決議した。同年七月ないし十月、伊賀衆は 早朝に丸山城を襲撃し、滝川勢は抵抗したものの、昼ごろには未完成の丸山城を放棄して 伊勢に逃亡した。 翌天正七年(1579)九月、信意は独断で伊賀に兵を送ったが、伊賀衆のゲリラ戦法などに よって甚大な被害を蒙り失敗した。このとき、丸山城周辺で戦闘があったかは不明である。 これに激怒した信長は、同九年(1581)に自ら大軍を編成し、伊賀を平定した(第二次天正 伊賀の乱)。 『諸国廃城考』によれば、信意は三郎兵衛に丸山城を与えたとされ、伊賀支配の拠点城と なったものとみられている。ただし、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで丸山城の 名は見られないため、それ以前には廃城となっていたものと推察される。 <手記> 丸山城は、西を木津川、東から北にかけてを領主谷川や比自岐川に囲まれた半独立丘に 築かれています。名前の通りこんもりした山で、要害性としてはそこまで高いようには思われ ません。登山口は南・北・西の3か所にあり、私は南から登って西へと下りました。 南から入ると、まず南東尾根の出丸にたどり着きます。ここは前後に櫓台状の土壇があり ますが、堀はみられず、防備としては中途半端な感じです。さらに登ると本丸となり、天守台 や枡形状の虎口がみられます。 本丸西方の尾根筋には曲輪形成のはっきりしない削平地が続き、途中途中に古墳を転用 したとみられる櫓台状の土壇が点々としています。堀跡のような地形も認められるのですが、 やはり明瞭ではありません。尾根先の西の丸には水道施設があり、旧状そのままではない でしょうが、それなりに広く整った曲輪であったことがうかがえます。西の丸の先は、階段状 の帯曲輪群を経て西麓の登山口に至ります。 全体として、城地は広大で削平や天守台などの造作は成されているものの、城郭としての 完成度は決して高くないように見受けられます。他方で、感情や目先の利益で行動する傾向 のあるようにみえる信雄が、意地や見栄でこの城を維持しようとしたとしても、おかしくはない でしょう。伊賀平定後に丸山城修築を三郎兵衛に命じたものの、翌年の本能寺の変をはじめ 賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いと大きな対立が続き、工事が進まないまま秀吉に伊賀を 割譲することになったとするのが、個人的に最も合点のいくシナリオと考えています。 |
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東方から丸山城跡(左)と 嵯峨尾主馬砦跡(右)を望む。 |
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城氏館跡前から丸山城跡(左)と滝川三郎兵衛城跡(右)を望む。 | |
南の登城口。 | |
南東尾根の出丸。 | |
出丸先端側の櫓台状土塁。 | |
櫓台状土塁の上。 | |
本丸のようす。 | |
本丸天守台上の城址碑。 | |
本丸虎口脇の土塁。 | |
本丸西方尾根のようす。 | |
尾根筋の古墳を利用した櫓台状土壇。 | |
同上。 | |
堀跡状地形。 | |
西の丸と水道施設。 | |
西の丸下の腰曲輪群。 | |
おまけ:丸山踏切を渡る伊賀鉄道。 |