滝堺城(たきさかい)
 別称  : 滝境城
 分類  : 平山城
 築城者: 武田信玄
 遺構  : 堀、曲輪
 交通  : JR東海道本線藤枝駅からバスに乗り、
      「片浜」下車徒歩15分


       <沿革>
           元亀二年(1571)、徳川方の高天神城攻めに手こずった武田信玄によって長期戦用の
          中継拠点として築かれたとされる。『武徳編年集成』によれば、はじめ「旧塁(滝堺古城)」
          を利用しようとしたものの、手狭であったために新規築城を行ったとされる。
           信玄の子勝頼の代になって巻き返しに出た徳川家康は、天正九年(1581)に高天神城
          を奪還した。翌十年(1582)の織田信長による武田攻めに際して小山城が落城するまで
          には、滝堺城も落とされ廃城となったと推測されている。


       <手記>
           勝間田川河口から萩間川河口まで複雑な浸食谷をもつ牧ノ原台地の丘陵地帯が続き、
          滝堺城および滝堺古城はその一端に築かれています。麓から道があり、その入口付近に
          案内板があるそうですが、googleマップで見ると未舗装路のうえ、山麓には駐車スペース
          もないようなので茶畑の広がる台地上側からアクセスしました。少し歩きますが幹線道路
          沿いに車を止められる場所もありました。
           滝堺城は、両サイドを切り立った谷に挟まれた峰先を堀切で順々に切断した構造をして
          います。兵站基地という性格上、そこまで目立った工夫を必要とはしなかったのでしょう。
          最後尾の堀切脇に説明板があり、その次に二重堀切があります。その先に二曲輪と主郭
          が続き、『日本城郭大系』によれば二曲輪はさらに2つの曲輪に分かれていたようです。
          前方2曲輪は茶畑となっていて、が重機を通すため各堀切に土橋が設けられていますが、
          当時はすべて掘り切られていたものと推測されます。
           主郭からはいくらか眺望が開けており、高天神城へ海路で兵糧などを運ぶ拠点であった
          ことが分かります。また富士山側には大きな桜の木が1本あり、その下にはベンチが設置
          されていました。春には花見と富士見が両方楽しめて、さぞ風流なことでしょう。

           
 最後尾の堀切を望む。
 右手斜面沿いに説明板があります。
説明板。 
 最後尾の堀切と麓へ通じる道。
最後尾の堀切。 
 最後尾の曲輪跡。
二重堀切の1条目。 
 同2条目。
二重堀切の間の曲輪跡。 
 二曲輪跡。
堀切越しに主郭を望む。 
 主郭の堀切。
主郭のようす。 
 主郭先端部。
主郭から高天神方面の眺望。 
 駿河側の眺望。
 奥に富士山が見えます。
富士山を望むベンチと桜の木。 


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