滝脇松平氏館(たきわきまつだいらし)
 別称  : 滝脇城
 分類  : 平城
 築城者: 松平乗清
 遺構  : なし
 交通  : 東海環状自動車道豊田松平ICより
      車で25分


       <沿革>
           十八松平の1つ滝脇松平家の居館跡とされる。滝脇松平家は、安祥松平家初代松平
          親忠の九男乗清が、長享元年(1487)に滝脇に住したことに始まる。乗清については、
          親忠の次男で大給松平家初代の松平乗元の子ともいわれる。
           弘治二年(1556)、親今川・松平宗家方の滝脇松平家は、反今川方の大給松平親乗
          に急襲された。乗清・乗遠父子は滝脇城を攻められ敗死し、乗遠の子正乗も前哨戦で
          討ち死にした。直後の滝脇郷の扱いは定かでないが、家督は正乗の弟乗高が継いだ。
          乗高は3人の菩提を弔うため、滝脇に長松院を建立した。
           天正三年(1575)、乗高は復讐として大給城を急襲し、親乗を尾張国へ追い落とした。
          同十八年(1590)に徳川家康が関東へ移封となると、乗高もこれに従った。滝脇の館も
          このときに廃されたものと推測される。関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、乗高の子
          乗次は滝脇村を含む旧領600石を与えられた。乗次はかつての居館跡とは別とされる
          場所に、新たに滝脇陣屋を築いた。


       <手記>
           前出の長松院付近が館跡とみられていますが、確証はないようです。谷戸を挟んだ
          対岸に、江戸時代の滝脇陣屋跡があります。長松院には3代の墓についての説明板は
          ありますが、館については触れられていません。
           長松院は谷戸のかなり奥まったところにあり、目の前には専光寺と春日神社が舌状
          台地のようにせり出しています。ここで、この2寺社に着目すると、その間は堀切のよう
          に掘り抜かれています。これを堀と見るならば、舌状台地に1つないし2つの曲輪を設け
          た居館兼城砦と見ることができるのではないかと感じました。その場合、居館があった
          のは専光寺の方という可能性が高まってくるでしょう。
           大給松平氏との相克で攻め落とされた「滝脇城」については、この館とみる向きと、
          川向うの日影城とする説があります。詰城の性格をもつのは日影城なので、少なくとも
          乗清・乗遠父子が松平親乗を迎え撃ったのは、日影城と見るのが妥当と思われます。

           
 長松院。
長松院の滝脇松平氏墓所説明板。 
 長松院門前からの眺望。
専光寺。左側は堀跡か。 
 おまけ:滝脇の地名の由来となった二畳ヶ滝。


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