日影城(ひかげ)
 別称  : 滝脇城
 分類  : 平城
 築城者: 滝脇松平氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 東海環状自動車道豊田松平ICより
      車で30分


       <沿革>
           十八松平の1つ滝脇松平家の詰城と考えられている。滝脇松平家は、安祥松平家初代
          松平親忠の九男乗清が、長享元年(1487)に滝脇郷に住したことに始まる。乗清について
          は、親忠の次男で大給松平家初代の松平乗元の子ともいわれる。乗清以来の居館は、
          日影城の川向うの長松院周辺にあったとされている。日影城がいつごろ誰によって築か
          れたのかは定かでない。
           弘治二年(1556)、親今川・松平宗家方の滝脇松平家は、反今川方の大給松平親乗に
          急襲された。乗清・乗遠父子は滝脇城を攻められ敗死し、乗遠の子正乗も前哨戦で討ち
          死にした。この滝脇城について、日影城を指すか否かは判然としない。
           直後の滝脇郷の扱いは詳らかでないが、家督は正乗の弟乗高が継いだ。天正三年
          (1575)、乗高は復讐として大給城を急襲し、親乗を尾張国へ追い落とした。 同十八年
          (1590)に徳川家康が関東へ移封となると、乗高もこれに従った。日影城は、早ければ
          弘治二年に、遅くとも関東移封の際に廃城となったものと推測される。


       <手記>
           日影城は、滝脇集落から郡界川を挟んだ対岸の、山塊から派生する小峰に築かれた
          城です。麓の生活道路沿いに城跡入口の小さな標識があり、そこから獣除けのロープ
          を何回かまたぎ、畑の脇を通していただいて、沢を登っていきます。しばらく行くと谷戸が
          二手に分かれるので、沢を渡って左手の尾根に取りつきます。そこからは道が不明瞭と
          なるので、尾根を直登するか、谷を遡るかするよりほかありません。谷を登れば最後尾
          の堀切に行き着くと思われますが、倒木が多かったので、私は尾根を直登する方を選び
          ました。道も、目印になるようなものもないので、行きと帰りで同じルートを辿るのは困難
          です。
           城は至って小ぢんまりとしていて、主郭の背後を堀切で断ち、主郭の下は尾根が二股
          に分かれ、それぞれ北東側の尾根に5〜6段、北西に3〜4段の腰曲輪が並んでいます。
          堀切に面した主郭後部に櫓台状の土塁があるのが、ほとんど唯一の工夫らしい工夫と
          いえるでしょう。
           このように規模が大きいとは決していえない日影城について、本当に滝脇松平氏の
          詰城だったのかという疑問が湧くのもむべなきことと思います。地図上だけなら、居館
          背後の山上にある、滝脇小学校のあたりに城を構えるのが普通ではないかと感じます。
          ただ他の十八松平の諸城を見ると、松平城や大給城、形原城五井城など、平野部は
          ともかく山間部の諸家でも、あまり高所に城を設けない傾向があるように見えます。そう
          考えると、滝脇松平氏の地力を鑑みれば、日影城を詰城の滝脇城としても不自然さは
          ないように思いました。

           
 日影城跡を対岸から望む。
主郭後背の堀切。 
 主郭前面の土塁。
主郭後部の櫓台状土塁。 
 主郭北東尾根の腰曲輪。
同じく北東尾根の腰曲輪土塁。 
 同じく腰曲輪が3段に連なるようす。
北東尾根最下部(と思われる)腰曲輪。 
 北西尾根腰曲輪の土塁。
北西尾根腰曲輪(むしろ帯曲輪か)。 


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