玉之浦城(たまのうら) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 玉之浦像 | |
遺構 : 石塁、削平地、堀 | |
交通 : 福江市街よりバスに乗り、 「玉之浦」下車徒歩15分 |
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<沿革> 玉之浦十郎像によって、明応年間(1492〜1501)に築かれたとされる。玉之浦氏は 五島領主宇久氏の庶流で、鎌倉時代の宇久氏3代宇久太の子貞にはじまるとされる。 ただ、当時の宇久氏の勢力は宇久島にとどまっていたと推察され、実際には8代当主 宇久覚が宇久島から福江島の岐宿に移って以降に分家したものと考えるのが妥当と 思われる。像以前の玉之浦氏の系譜については定かでない。 永正四年(1507)に本家の15代宇久覚が没し、嫡男囲が若くして跡を継ぐと、囲の妹 を室としていた像の子納は反乱を起こした。居城の辰の口城を急襲された囲は黒島へ 逃れたが、その地で自害した。福江島を手中に収めた納が玉之浦城を居城とし続けた のかどうかは詳らかでない。伝承によれば、玉之浦の半島付け根にあたる大宝に館を 築いたが、納は粗暴な振る舞いが多く、民心は離れていったとされる。 大永元年(1521)、平戸島の松浦氏を頼って落ち延びていた囲の子盛定は、同氏の 援助を受けて玉之浦へ攻め入った。納は抗戦したものの、敗れて嵯峨ノ島へ逃れ、 その地で自害した。玉之浦氏および玉之浦城のその後については定かでない。 <手記> 玉之浦は福江島の南西に細く複雑に伸びたリアス式の半島の先端近くに位置して います。周囲を島山島や深い入り江に囲まれた穏やかな湾口の港で、船を付けるの には適していたでしょうが、逆に当時は船以外の交通手段はほとんど発達していな かったものと思われ、ここから福江島全体に覇を唱えるというのは、現代の感覚から は想像がつきません。 集落の背後にある金刀比羅神社の峰が玉之浦城址です。迷うことはありませんが、 参道の階段が狭くて急なので、転げ落ちないように注意が必要です。本殿下に2段 程度の削平地があるように見えますが、神社や階段の造作とも思われなんとも言え ません。特筆すべきは、むしろ社殿の背後にあります。 本殿が主郭跡と思われますが、その背後に2段ほどの広い曲輪が認められます。 曲輪の周囲には石塁や土塁、堀、虎口跡が断片的に残っていて、福江島では貴重 な中世城館の遺構として見ごたえがあります。ただし、石塁には城としては不自然な 低い段築状のものや動物除けのような斜線状のものもあります。平地にことのほか 乏しい玉之浦にあって、貴重な平場として後世に耕地として転用されたものと思われ ます。 玉之浦の手前には、映画『悪人』のロケ地となった大瀬崎や、日本で最初のルルド がつくられた井持浦教会といった観光名所があり、観光バスもやってきます。ただし、 福江市街から車で来る際に海岸線沿いに国道384号線を使うと、富江から大宝まで かなりの隘路をひた走ることになります。福江島中央の二本楠周りのルートをとるか、 富江周りの場合は時間をゆったりめに見たほうがよいでしょう。 |
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玉之浦城址を見上げる。 | |
山頂への石段。 | |
本殿を見上げる。 | |
本殿裏手。 石垣は神社のものでしょう。 |
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本殿裏手の曲輪の石塁。 | |
同上。 | |
同じく堀跡。 | |
こちらは後世に積みなおされた石塁か。 | |
土塁と虎口。 | |
削平地下段のようす。 | |
玉之浦の静かな港。 |