多聞山城(たもんやま) | |
別称 : 多聞城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 松永久秀 | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : 近鉄奈良線近鉄奈良駅徒歩15分 | |
<沿革> 永禄二年(1559)、三好家重臣松永久秀が信貴山城を拠点として大和に侵攻した。宣教師 ルイス・アルメイダの永禄八年(1565)の通信文に、多聞山城の工事を始めてから5年になる との記述がみられることから、久秀は同二年〜三年(1560)の間に大和国の事実上の守護 であった興福寺を抑え、築城を開始したものとみられている。城山はもともと眉間寺山と呼ば れ、眉間寺があったとされているが、このときに聖武天皇の西側に移されたといわれる。 永禄四年(1561)には屋敷群がある程度完成し、久秀自身が未完成の多聞山城に移って いる。翌五年(1562)には城内で棟上げが行われ、奈良の町衆に見物させたとされる。前出 のアルメイダの通信や、同年に多聞山城を訪れた吉田兼右の記録(『兼右卿記』)には、その 豪華絢爛ぶりに驚いたことが記されている。とくに前者には「塔」についての記述があり、後の 記録に見える4階建ての櫓や、多聞山城が名称の由来となっている多聞櫓がすでに存在して いたものと推測される。 永禄十年(1567)、三好長慶死後に久秀と対立した三好三人衆は、大和の筒井氏らと協同 して多聞山城へ兵を進めた。三人衆方は五月に東大寺に布陣し、宿院城を巡る攻防戦など はあったものの、膠着状態が続いた。対峙から半年近くが経った十月十日、久秀は東大寺を 急襲して、三人衆勢を打ち破った。このとき東大寺大仏殿が焼失し、長らく久秀による蛮行と いわれてきたが、近年では三人衆側が火を放った、あるいは合戦中の失火によるものなど 異説も提唱されている。 翌永禄十一年(1568)に織田信長が上洛すると、久秀は信長に従属した。天正元年(1573) には信長包囲網に参加して挙兵したが、頼みの武田信玄が同年に没し、織田家重臣佐久間 信盛に多聞山城を包囲されて降伏した。久秀は赦されたものの多聞山城を没収され、城番と して山岡景佐が派遣された。翌二年(1574)には信長自身が多聞山城を訪れ、この城の舞台 にて、名香「蘭奢待」の切り取りを行ったとされる。 翌天正三年(1575)、南山城守護であった塙直政が大和守護兼任を命じられ、多聞山城主 となったとされる。しかし、直政はその翌四年(1576)に石山本願寺攻めで討ち死にし、順慶 が事実上の大和国主となった。信長は順慶に対し、多聞山城の主殿を解体し、建設中だった 二条御新造へ移築することを命じている。翌五年(1577)には四階櫓が順慶によって壊され (『多聞院日記』)、一説にはやはり築城中であった安土城へ移築されたといわれる。これに より、多聞山城は廃城になったものとみられる。ちなみに、久秀は同年に再び謀叛を起こし、 信貴山城で自害した。 <手記> 日本の城郭史を語るうえで欠かせない存在である多聞山城ですが、主郭周辺は市立若草 中学校となっており、遺構は乏しくまた自由に見学することもできません。正門下に説明板が 設置されているほか、門をくぐってすぐのところに城址碑があります。訪れたときに、ちょうど 人が門を開けて入っていったので、一声かけて石碑を見学させていただきました。 また、校舎とグラウンドの間の切通は、主郭東側の堀切跡とされています。自由に見られる 遺構としては、現状でおそらく唯一のものではないかと思われます。学校南西の聖武天皇陵 も西の丸跡とされていますが、当然ながらこちらも立ち入りはできません。 訪城の際は、南麓の若草公民館へ立ち寄ることをお勧めします。館内に資料が展示されて いるほか、受付で100円以下の寄付をすると、地元の研究会が自費発行した冊子がいただけ ます。 なかなかしっかりした内容なので、入手しない手はないでしょう。ただし、月曜・祝日は 休館のようなのでご注意ください。 ところで、多聞山はさほど険しいとはいえず、縄張りもほとんど単郭に近く、防御力はあまり 高いとはいえないように思います。今も目の前に大仏殿や興福寺五重塔が俯瞰できる通り、 その第一の存在意義は奈良の街や興福寺・東大寺を眼下に収めることにあったのでしょう。 奈良を支配下に置くにあたって、戦う城より魅せる城、軍略より政略を優先した久秀の思想 が、最も如実に表れた城であるといえます。 |
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南麓の佐保川と城山。 | |
若草中学校正門下の説明板。 | |
正門をくぐった先にある城址碑。 | |
主郭東側の堀切跡。 | |
正門前からの眺望。 画面奥右手に興福寺五重塔が見えます。 |