宿院城(しゅくいん) 付 中坊氏館(なかのぼうし) |
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別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 松永久秀 | |
遺構 : なし | |
交通 : 近鉄奈良線近鉄奈良駅徒歩5分 | |
<沿革> 宿院とは、平安時代に藤氏長者が春日大社を参詣した際の宿所を指す。今日の 宿院町に隣接する坊屋敷町には、中坊氏の館があったとされる。中坊氏は柳生氏 の庶流と称し、笠置寺の衆徒であったものが奈良へ移り住み、戦国時代に入ると 筒井氏に従ったとされる。永禄二年(1559)に、松永久秀が大和へ進出し多聞山城 を築くと、中坊氏は松永氏に鞍替えしたとみられている。 永禄九年(1566)十二月、三好三人衆らに攻め込まれた久秀は、宿院城を築いて 抗戦した。中坊氏の館を取り込んだとも考えられるが、確証はない。 翌永禄十年(1567)五月、三人衆らの軍勢が再び多聞山城へ迫り、池田勝正が 宿院城を攻撃したが、松永勢は激しく抵抗して持ち堪えた。松永勢は、城へ容易に 接近されるのを防ぐため、周囲の寺社に火を放った。 同年十月の東大寺大仏殿の戦いにより、三人衆勢は多聞山城下から駆逐された が、宿院城のその後については不明である。一方の中坊氏は、元亀二年(1571) の辰市城の戦いで筒井順慶が久秀に勝利すると、中坊秀祐が筒井氏に帰参して いる。中坊氏館が存続したとすると、廃城時期は筒井定次が伊賀へ転封となった 天正十三年(1585)までのことと推測される。ちなみに秀祐は、江戸時代に筒井家 が改易された後、旗本となって奈良奉行に取り立てられている。 <手記> 現在の宿院町は数世帯くらいしかいなさそうな小区画で、その西隣に坊屋敷町が あります。どちらも市街地や奈良女子大学の敷地となっていて、遺構はおろか城跡 を感じさせるようなものは何もありません。 付近には宿院城・中坊氏館のほか、北小路城もあったとされています。これらの 城館がどのような関係にあったのかは気になるところですが、今や手がかりを探す のも困難でしょう。 |
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宿院町現況。 |