二条御新造(にじょう)
 別称  : 二条殿、二条御所など
 分類  : 平城
 築城者: 織田信長
 遺構  : なし
 交通  : 市営地下鉄烏丸御池駅下車


       <沿革>
           元亀三年(1572)、京の妙覚寺に宿泊した信長は、寺に東隣する二条家の邸宅を接収し、二条氏に
          別の屋敷を提供した上で、村井貞勝を奉行に新城の築城を命じた。これは将軍足利義昭に献じた(旧)
          二条城とは別のもので、二条新城築城には、反信長包囲網を形成しようとして信長と対立していた義昭
          を牽制する目的もあったと考えられる。
           翌天正元年(1573)、義昭は旧二条城に立て篭もって挙兵し、信長は上京を焼き払い城を包囲した。
          このときは正親町天皇の勅命により和議が成立したが、義昭は京を追放され旧二条城も取り壊された。
           二条御新造の造営は佐和山城安土城の普請と並行して行われ、天正五年(1577)に信長が入城
          した。二条御新造は、2年ほど信長の京の居所として機能したが、天正七年(1579)に工事が完了した
          後、誠仁親王へ献上され二条新御所となった。
           天正十年(1582)に信長父子が入京した際、信長は本能寺に、嫡子信忠は妙覚寺に宿泊した。そこ
          で本能寺の変が起こり、信忠は本能寺へ向かおうとした。しかし、村井貞勝らが本能寺の陥落を伝え、
          二条御新造への撤退を進言した。信忠は御新造へ移るも、まもなく明智軍に包囲された。信忠は、誠仁
          親王の退去まで攻城を待つよう光秀に申し入れ、光秀もこれを了承し、一旦戦火は止んだ。親王が無事
          退去したことを確認すると、激しい攻城戦が行われ、信忠や貞勝らは討ち死にし、城も灰燼に帰した。


       <手記>
           近年まで義昭の二条城と混同されてきた城ですが、御新造建設のために旧二条城の石材が運搬され
          たことを示す山科言継の日記や、現在も残る「二条殿町」の地名などからこれらは別の城であると考えら
          れています。その範囲は詳らかではありませんが、「上妙覚寺」「下妙覚寺」の地名が衣棚通に残り、妙
          覚寺に東隣していたことから、室町・御池・烏丸・二条の各通りに面する規模のものではなかったかと思
          われます。
           遺構は残っておらず、御池通から両替町通を北に入ったところに、江戸時代の金座銀座跡の碑と並んで
          「此付近二条殿址」の石碑が立っています。

           


二条殿址の石碑。


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