二条御新造(にじょう)
 別称  : 二条殿、二条御所など
 分類  : 平城
 築城者: 織田信長
 遺構  : なし
 交通  : 市営地下鉄烏丸御池駅下車


       <沿革>
           元亀三年(1572)、京の妙覚寺に宿泊した信長は、東に隣接する二条家の邸宅を接収し、
          二条氏には別の屋敷を提供したうえで、村井貞勝を奉行に新城の築城を命じた。これは、
          将軍足利義昭に献じた(旧)二条城とは別のもので、二条新城築城には、反信長包囲網を
          形成しようとして信長と対立していた義昭を牽制する目的もあったと考えられる。
           翌天正元年(1573)、義昭は(旧)二条城に立て籠もって挙兵し、信長は上京を焼き払い
          城を包囲した。このときは正親町天皇の勅命によって和議が成立したが、義昭は京を追放
          され、旧二条城も取り壊された。
           二条御新造の造営は佐和山城安土城の普請と並行して行われ、天正五年(1577)に
          信長が入城した。二条御新造は2年ほど信長の京の居所として機能したが、同七年(1579)
          に工事が完了した後、誠仁親王に献上され二条新御所となった。
           天正十年(1582)五月二十九日に信長・信忠父子が入京すると、信長は本能寺に、信忠
          は妙覚寺に宿泊した。六月二日未明に本能寺の変が起こると、信忠は本能寺へ向かおうと
          した。しかし、村井貞勝らが本能寺の陥落を伝え、二条御新造への撤退を進言した。信忠は
          御新造へ移るも、まもなく明智軍に包囲された。信忠が誠仁親王の退去まで攻城を待つよう
          光秀に申し入れると、光秀もこれを了承し、一旦戦火は止んだ。親王が無事退去したことを
          確認すると、激しい攻城戦が行われ、信忠や貞勝らは討ち死にし、城も灰燼に帰した。


       <手記>
           近年まで義昭の二条城と混同されてきた城ですが、御新造建設のために二条城の石材が
          運搬されたことを示す山科言継の日記や、今も残る「二条殿町」の地名などから、別の城で
          あると考えられています。その範囲は詳らかではありませんが、「上妙覚寺」「下妙覚寺」の
          地名が衣棚通に残り、妙覚寺に東隣していたことから、室町・御池・烏丸・二条の各通りに
          面する規模のものではなかったかと考えられています。
           遺構は見られず、御池通から両替町通を北に入ったところに、江戸時代の金座銀座跡の
          碑と並んで「此付近二条殿址」の石碑が立つのみです。

           


二条殿址の石碑。


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