守山城(もりやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 坂上田村麻呂か | |
遺構 : 石垣、堀、土塁、曲輪 | |
交通 : JR水郡線磐城守山駅徒歩10分 | |
<沿革> 平安時代初期に坂上田村麻呂が蝦夷攻略に赴いた際に築かれたと伝わる。真偽は不明 だが、鎌倉時代には田村庄司家が守山城に拠って、田村荘を治めていたとされる。ただし、 田村庄司家は藤姓とされ、田村麻呂の後裔を称しているものの、実際に繋がりがあるのか も含めて系譜は定かでない。 南北朝時代に入ると田村庄司宗季は南朝に属し、宇津峰城に北畠顕信や守永王を迎え て転戦した。一方、このころ「御春輩」と呼ばれる武士団が三春地域に勃興し、こちらも田村 氏を称した。この三春田村氏も田村麻呂の子孫を自称したが、本姓は平氏といわれている。 三春田村氏は白河結城氏と結んで勢力を伸ばし、田村庄司氏は北朝に降ったものの、応永 二年(1395)に南朝残党を糾合して田村庄司の乱を引き起こした。乱は白河結城氏や鎌倉 府によって鎮圧され、田村庄司氏は滅亡した。守山城で戦闘があったか否かは不明である。 結果、田村荘に白河結城氏の支配が及ぶようになり、その下で結城直朝から偏諱を受けた とみられる三春田村氏の田村直顕が台頭したとみられている。 白河結城氏は、直朝の没後に内乱が生じて勢力を減衰させた。それを受けて、田村氏は 直顕の孫義顕の代までに守山城を手中に収め、拠点とした。しかし、永正年間の子年(永正 元年(1504)ないし十三年(1516))に三春城を新たに築いて居城を移したとされる。以後は 田村氏の支城となったと思われるが、城主など詳細は定かでない。 天正十四年(1586)に田村清顕が嗣子なく没すると、親伊達派と親相馬派で家中が分裂 し、同十六年(1588)の郡山合戦に勝利した清顕の娘婿の伊達政宗が田村家を掌握した。 政宗は清顕の甥宗顕に田村氏の家督を継がせ、一方で白石宗実や片倉景綱を守山城へ 派遣し、田村家を従属下に置いた。 天正十九年(1591)、政宗は葛西大崎一揆への関与を疑われ、田村郡を含む6郡を没収 され、岩出山へ減転封を命じられた。仙道の所領は会津領主蒲生氏郷に与えられ、守山城 はいったん廃城となったとみられるが、後に蒲生家の与力大名である田丸直昌が、三春城 から守山城へ居を移した。 慶長三年(1598)、蒲生家は宇都宮城へ減転封となり、代わって上杉景勝が会津領主と なった。守山城代には、本庄繁長や竹俣利綱が任じられたとされる。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより蒲生家が旧領に復帰すると、蒲生郷成が守山城 に入った。しかし、郷成は同十四年(1609)までに三春城へ移り、元和元年(1615)の一国 一城令までに廃城となったとみられている。 <手記> もしも坂上田村麻呂が築いたのだとすれば、断続的ながらおよそ800年もの歴史をもつ城 ということになります。とはいえ田村氏の系譜は疑問が多く、たまたま征夷大将軍の名前の 一部と同じというだけの仮冒という可能性が高いように思います。それはさておき、守山は 周囲をぐるりと河川に囲まれた台地ということから、町場を開くのに適した場所として古くから 注目されていたことは想像に難くないでしょう。 守山城があるのは、その台地の南東端に突き出た部分になります。守山小学校の南側の 細道を突き当りまで進めば、本丸直下まで車で入れます。その手前には蒲生氏時代のもの とされる二の丸の堀と石垣跡があり、城内で最大の見どころとなっています。 本丸には城山八幡宮が鎮座していて、本殿周囲には低い土盛りが巡っているのですが、 これが土塁遺構であるかどうかは判別が困難です。また、本丸と二の丸を見る限り、縄張り 上の工夫はあまりみられず、蒲生・上杉時代にあってどの程度重視されていたのかは疑問 が残ります。 |
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二の丸の堀と石垣跡。 | |
二の丸のようす。 | |
二の丸から本丸を望む。 | |
本丸の切岸。 | |
本丸の城山八幡宮。 | |
境内の土盛り地形。 |
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同上。 |