建部山城(たてべやま)
 別称  : 八田城、田辺城
 分類  : 山城
 築城者: 一色満範
 遺構  : 曲輪跡、土塁
 交通  : JR舞鶴線西舞鶴駅からバスに乗り、
      「福井小学校口」下車徒歩60分


       <沿革>
           丹後守護・山名満幸らが決起したい明徳二年(1391)の明徳の乱での戦功により、新たな
          丹後守護となった一色満範が、守護所八田館の詰城として築いたのがはじまりとされる。
          『一色軍記』などでは、満範の祖父・範光の築城としているが、範光が丹後を領した事実は
          なく、満範と名を混同したものと推察される。
           丹後一色家は室町幕府の四職家として幕政で重きをなし、歴代当主は京に滞在すること
          が多かった。15世紀の応仁の乱以降は国人の反乱や権力闘争に悩まされるようになり、
          勢力を減衰させていった。
           戦国時代末期の当主・一色義道は、織田信長に誼を通じ、将軍・足利義昭から丹後領有
          を認められた。しかし、織田氏の勢力が若狭や丹波に及ぶと、両者は対立するようになった
          とみられる。天正七年(1579)、ついに織田家重臣・明智光秀の麾下の長岡(細川)藤孝が
          丹後へ侵攻し、一色勢は建部山城に籠って抵抗するも敗れて落城した。義道は中山城へ
          落ち延びたものの、城主・沼田幸兵衛の裏切りにより自害したと伝わる。
           藤孝は加佐・与謝2郡の丹後半国を与えられ、宮津城に入った後、八田守護所を拡張して
          田辺城と改名した。したがって、建部山城は落城したまま廃されたものと推察される。


       <手記>
           西舞鶴市街の北西に、丹後富士とも称されるきれいな円錐形の建部山が聳えています。
          一色氏ならずとも、丹後の戦国大名であればまず居城を築いたであろうと思われる美しくも
          険しい山容です。
           山上には、明治時代に舞鶴軍港防衛のための建部山保塁が構築され、南東麓から上図
          の通り登山道が延びています。資材引き上げ用に整備された道のようで、かなりダラダラと
          した登りが続き、途中の東支城見学も含めて往復2時間ほどを要しました。
           要塞建設により地形がかなり改変されているようで、どこまでが遺構を含め原地形なのか
          判別はきわめて困難です。要塞の説明板周辺には、おそらく遺構と思われる土塁が巡り、
          また砲側庫の裏手は切岸のようにも見えます。地下弾薬庫の上部が最頂部のようなので、
          主郭跡とも思われますが、確証はありません。ただ、登山道沿いの北東1段下の削平地は、
          往時の腰曲輪跡である可能性が高そうです。

 南東から建部山を望む。
同じく西から。 
 舞鶴要塞説明板と土塁跡か。
同じく土塁跡か。 
 舞鶴要塞の地下弾薬庫。
同じく砲側庫。 
 同じく砲座跡。
砲側庫裏手の切岸状地形。 
 地下弾薬庫の上部。
 主郭跡か。
北東1段下の削平地と切岸。 
こちらは腰曲輪跡と思われます。 


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