龍ヶ崎城(りゅうがさき)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 小笠原氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : 中央自動車道伊北ICから車で10分


       <沿革>
           『守矢満実書留』の寛正五年(1464)の条に見えるのが初出とされる。信濃守護・小笠原氏に
          よって築かれたとみられているが、確証はない。『諏訪御符札之古書』の文明十九年(1487)の
          条には、諏訪(高遠)継宗が龍ヶ崎城を取り立てたことが記されている。
           天文十四年(1545)、武田晴信(信玄)が上伊那へ侵攻すると、小笠原長時は1万5千の兵で
          後詰へ向かい、龍ヶ崎城に陣取った。福与城を囲んでいた晴信は、『高白斎記』によれば五月
          二十一日から龍ヶ崎城攻めを開始し、六月に入って板垣信方らが攻略したとされる。小笠原勢
          は府中へ退却し、これを見た福与城の藤沢頼親は武田氏に降伏した。
           天正十三年(1585)、徳川家康から豊臣秀吉に寝返った長時の子・貞慶は、伊那へ攻め入り
          龍ヶ崎城を落として高遠城に迫った。これ以降の龍ヶ崎城については不明である。


       <手記>
           松本平から南下した三州街道が、伊那谷へと入る喉口部に築かれた要衝の城です。城山の
          ある宮所はかつて牧場が営まれていたということで、古くから発展していた土地のようです。
           城跡へは南麓の道路沿いか、南東麓の池上寺から登山道が付いています。登ってまもなく、
          尾根筋にそこそこの面積をもつ広場があります。東側は法面になっているので、当時はもっと
          広い曲輪で、池上寺と共に居館跡だった可能性があるでしょう。
           そこからはしばらく、九十九折れの道が続きます。私が訪れたのは松茸の時期で、あちこち
          止山となっているため山城巡りには神経を使います。龍ヶ崎城跡も稜線から西側にテープが
          張られているものの、城内の主要部は史跡として歩けるようになっていました。
           しばらく登ると、浅い堀切跡や腰曲輪跡とみられる平場がいくつかみられます。主郭下には
          副郭とみられるややしっかりした曲輪があり、木之花咲耶姫命と低い櫓台状態の土壇があり
          ます。土壇は神社跡とも、城の遺構とすれば狼煙台とも思われます。
           主郭は低い土塁で囲繞され、前後には大堀切を具えています。主郭の背後には三条堀切と
          少し離れてもう1条の堀切、さらにその先の細尾根にも、かつては堀切だったとみられる竪堀が
          数本続いていました。
           全体としてみると、曲輪面積に比して堀切の規模も大きく数も多いのが特徴です。限られた
          曲輪とアンバランスな堀切という組み合わせは、伊那谷の山城によくみられます。したがって、
          武田氏に攻め落とされた後もさほど改修は加えられないまま、必要に応じて天正期まで使用
          されていたものと推察されます。

           
 南から龍ヶ崎城跡を見上げる。
 南麓の登山口。 
 南東麓の池上寺。
登ってすぐの広場。居館跡か。 
 九十九折れを登って最初の平場。
 腰曲輪跡か。
堀切跡。 
 同じく腰曲輪跡か。
副郭下の堀切。 
 副郭の虎口跡。
副郭の下段。 
 副郭上段と木之花咲耶姫命碑。
主郭前方の堀切。 
 主郭から前方堀切と副郭を見下ろす。
主郭のようす。 
 同上。
主郭から辰野市街を見渡す。 
 主郭背後の堀切1条目。
同じく2条目。 
 同3条目。
少し離れて4条目。 
 尾根筋の堀跡状地形。
同じく竪堀状地形。 


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