手賀城(てが) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 手賀正家か | |
遺構 : 土塁、堀 | |
交通 : JR常磐線石岡駅よりバス 「玉造中学校下」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 大掾氏一族手賀氏の居城である。手賀氏は、大掾氏吉田流の玉造氏の分家で、行方景幹の 四男玉造幹政の次男正家にはじまるとされる。『日本城郭大系』には、景幹の次男家政が嘉応 元年(1169)に手賀城を築いて手賀氏を称したとある。しかし、一般的に景幹の次男は島崎高幹 と伝えられているため、手賀家政の実在には疑問が残る。 手賀氏は、その後分家の鳥名木館主鳥名木氏とともに主筋の玉造氏に同調していたようだ。 天文五年(1526)、玉造宗幹が島崎氏や小高氏と対立すると、手賀与一郎景幹は宗幹を援けて 小高氏側についた小田氏治と戦った。永禄二年(1559)にも、宗幹と景幹は氏治と戦っている。 天正十八年(1590)の小田原の役で、大掾氏一族は豊臣秀吉のもとへ参陣しなかったため、 戦後その所領は佐竹氏に与えられた。翌十九年(1591)二月、景幹ら行方・鹿島両郡の所謂 「南方三十三」の諸領主15名が太田城の佐竹義重・義宣父子に招かれ、殺害された。手賀氏は 滅び、手賀城も廃された。 <手記> 手賀城は、2本の谷戸に挟まれた舌状の丘陵の先端にあります。『大系』によれば、城跡の 周囲の堀が田となっているということですが、現在では城跡に定期的に人が入っている気配は ありません。 城山の北麓から、山上へ登る農道があり、その途中に城跡方面へ分け入る獣道があります。 おそらく、昔は田畑に向かう道だったのでしょうが、今では入ってまもなく倒竹に行く手を阻まれ ます。道も完全にわからなくなってしまったので、残念ながらそこで引き返すことにしました。 一応、尾根を切断する堀切を1条見ることができましたが、返す返すも残念な城跡でした。麓 の道には手賀城址の道標がちゃっかり立てられているだけに、残念度もひとしおでした。 |
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手賀城址遠望。 | |
尾根筋の堀切。 |