鳥名木館(となぎ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 鳥名木氏 | |
遺構 : 土塁、堀跡 | |
交通 : JR常磐線石岡駅よりバス 「玉造中学校下」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 大掾氏一族鳥名木氏の居館である。鳥名木氏は手賀氏の分家といわれ、手賀氏は吉田流 大掾氏の行方景幹の四男玉造幹政の次男正家にはじまるとされる。鳥名木氏がいつごろどの ように手賀氏から分かれたのかは詳らかでない。 『日本城郭大系』には、大掾氏の祖平貞盛の子岡田太郎貞政が、天喜年間(1053〜58)に 鳥名木に居館を構え、鳥名木氏を称したとある。しかし、貞盛の子に岡田貞政なる人物を確認 できない。また『大系』の記述が正しいとすると、本家筋にあたる玉造氏の成立以前に鳥名木 氏が存在していたことになる。さらに、貞盛の弟の繁盛ないしその子維幹がはじめて大掾氏を 称したとされることからも、大掾氏一族としての鳥名木氏に矛盾が生じる。『大系』では、平治 年間(1159〜60)以降、鳥名木氏は幹成・幹定・幹長・道種・義房・直幹と続いたとしているが、 出典は不明である。 鳥名木氏が明確に史料に登場するのは、現在も鳥名木家に伝わる『鳥名木家文書』の永仁 五年(1297)の「ちゃうあ譲状」が最初とされる。このことから、鳥名木氏や鳥名木館は遅くとも 鎌倉時代中期には成立していたと考えられる。 応永二十九年(1422)の小栗満重の乱では、鳥名木国義が足利持氏に従って出陣している。 また、天文五年(1536)には玉造宗幹が小高氏や島崎氏と対立し、小高氏が小田城主の小田 氏治に救援を求めると、鳥名木氏は手賀景幹とともに玉造氏に加勢した。このときの鳥名木氏 当主の名は明らかでない。 天正十八年(1590)の小田原の役で、大掾氏一族は豊臣秀吉のもとへ参陣しなかったため、 戦後その所領は佐竹氏に与えられた。翌十九年(1591)、鳥名木氏を含む行方・鹿島両郡の いわゆる「南方三十三館」と呼ばれる領主たちは、佐竹義重・義宣父子に太田城に招かれて 殺害された。領主としての鳥名木氏は滅び、鳥名木館も廃されたと思われるが、子孫は江戸 時代に麻生藩に仕え現在に至っている。 ちなみに、『鳥名木家文書』は鎌倉時代初期から江戸時代初期までの41点におよぶ文書で、 当時の在地領主の有り様を知る貴重な資料となっている。 <手記> 鳥名木館は、霞ヶ浦沿岸の沢谷戸に臨む高台にあります。西麓には、今も鳥名木氏のお宅が あります。お屋敷の裏手を登っていくと、鳥名木館と鳥名木家文書の説明板があります。ここが、 館の東端にあたるとされています。 説明板脇の道を北に進むと、木立のなかに小さな祠があります。祠の周囲は土塁で囲まれて いますが、高さはなく、防御用というよりは神域を区切るためのように思われます。祠の参道脇 には堀跡が見受けられ、これを東端の防御とみると、祠は北東隅の鬼門に位置することになり ます。 説明板と祠の間に、西側へ下りる道があり、これを行くと主郭と思われる峰の先端の曲輪に 出ます。ここに城址碑があり、曲輪周囲には土塁が残っています。 麓のお屋敷は周囲を土塁や堀跡と思われるお花畑に囲まれているうえ、門前は土橋となって いて、中世の館のようすを色濃く残しています。先の震災で母屋が被災し、私が訪れた時は建て 直しの工事中のようで住人の気配はありませんでした。 さて、鳥名木館は、数多くの城館跡を見てきた経験からいうと、少々奇妙な城館といえます。 主郭が副郭より低く、ウィークポイントの峰続きの東端から見下ろせてしまうこと。また、主郭と 副郭の間に土塁は有れども堀はなく、また逆に東端には堀は有れども土塁がない(土塁がある べき場所に参道がある)など、ここで戦おうという意思があまり感じられません。そもそも、麓の 居館部は三方を峰に囲まれた館地形にありますが、城郭部はあまり適地とは思われません。 ここからは個人的な推測ですが、鳥名木館の山上部分は、館が造営されてからだいぶ後に なって館の裏手にとりあえず的に掻き上げられたものではないかと考えています。そのくらい、 すぐ近くの玉造城や手賀城に比べて簡素なつくりの城に思いました。 |
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鳥名木館跡と鳥名木家文書の説明板。 | |
北東隅の祠。 周囲は低い土塁となっています。 |
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東端の堀跡。 | |
主郭の土塁。 | |
主郭のようす。 右奥に城址碑、左手に土塁が見えます。 |
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麓の居館部。 |