仲山城(なかやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 阿仁和基保
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 秩父鉄道樋口駅徒歩25分


       <沿革>
           正和二年(1312)、北面の武士であった阿仁和兵助基保は、神のお告げを受けて京
          から当地へ下向し、仲山城を築いたと伝わる。阿仁和氏は橘姓を称していたようだが、
          詳しい出自は不明である。南北朝時代に入ると、阿仁和氏は新田氏に属したとされる。
           基保の長女は能登時国に嫁いだとされるが、時国がいかなる人物か定かでない。
          「平家にあらずんば人にあらず」で知られる平時忠の一子時国の子孫が、能登に配流
          となってから土着し時国氏を称していたが、関係があるのかは不明である。
           家督を継いでいた基保の子直家は、侍女との恋のもつれから秋山城主秋山新九郎
          継照に攻められた。正平十二/延文二年(1357)、樋口河原の戦いで直家は戦死し、
          仲山城も落城したとされる。その後の仲山城については定かでない。

       <手記>
           仲山城は、陣見山西麓にポッコリと聳える半独立山に築かれた城です。城跡へは、
          上の地図にある通り城山背後の峠を越える道から登ることができます。城山の南西麓
          にも仲山城跡の表示があるのですが、これに従ってはいけません。中腹の鉄塔までは
          保守点検道があるものの、そこから先はまったくの藪の直登で、えらい目に遭ってしま
          いました。
           山頂の主郭には説明板と四阿があります。主郭の北辺にだけ土塁が残っており、
          おそらくは烽火台として戦国時代まで使われていたものと推測されます。主郭の前後
          に1つずつ腰曲輪があり、その先に1つずつ堀切が設けられています。南側のみ、堀の
          先にもう1つ腰曲輪が続いています。
           学研『戦国の城(上)』には、仲山城は鉢形城天神山城を結ぶ烽火ルートの中継
          地点であったと指摘されています。ですが、仲山城からは天神山城は望めるものの、
          鉢形方面の次の中継点とされる要害山城はギリギリ目視できません。上述のように
          烽火台として存続していた形跡はあるので、要害山城との間にもう1つどこか中継点
          があったのではないかと推測されます。

           
 仲山城近望。
主郭と土塁。 
 
 主郭南側腰曲輪。
南側腰曲輪から主郭を望む。 
 南側の堀切。
堀切の南の腰曲輪。 
 主郭北側の腰曲輪。
腰曲輪北の堀切。 


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