蕨城(わらび) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 渋川氏か | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : JR京浜東北線蕨駅徒歩10分 | |
<沿革> 長禄元年(1457)、将軍足利義政の命により足利政知が関東へ下向し堀越公方となると、政知 によって足利一門の渋川義鏡が関東執事(関東管領/関東探題)に任じられた。義鏡は蕨城に 入り、政知を支えて古河公方討伐の任にあたった。 『鎌倉大草子』には、義鏡の曽祖父義行が貞治・応安年間(1362〜75)に武蔵国司となり、蕨に 入ったとある。また、『賀上家文書』にある「渋川直頼譲状」には、蕨郷を含めた12か国・22か所の 所領を「金王丸」に譲るとある。この金王丸は、直頼の子義行を指すと考えられている。こうしたこと から、義鏡の関東下向以前から蕨郷は渋川氏の所領であり、蕨城の原型となるものは既に直頼・ 義行の頃に築かれていたものと推測されている。 寛正元年(1462)、扇谷上杉持朝と政知との関係が悪化し、上杉氏重臣大森氏頼・三浦時高・ 千葉実胤が引退するという事件が起きた。この背景には、義鏡が持朝を義政に讒言したことがある といわれる。しかし、これを機に義鏡の名は表舞台から消えることになった。上杉家の慰留を図った 幕府によって、義鏡は失脚したと考えられている。義鏡の養子義堯が跡を継ぎ、蕨城主となった。 ちなみに、義鏡の子義廉は斯波氏に入嗣し、後に応仁の乱の原因の1つとなった。 大永四年(1524)一月、北条氏綱が扇谷上杉朝興を破って江戸城を奪取すると、蕨城の渋川氏 も北条氏に従った。しかし、体勢を立て直した朝興勢によって、同六年(1526)六月七日に蕨城は 攻め落とされた。その後、時期は不明だが、渋川氏が再び蕨城を奪還した(天文十五年(1546)の 河越夜戦前後か)。 『里見系図』によれば、永禄十年(1567)の三船山合戦で渋川某が北条方の武将として出陣し、 討ち死にしている。その後も、渋川氏は蕨城にあって続いていたようだが、天正十八年(1590)に 北条氏が滅ぶと、渋川氏も蕨を去ったといわれる。江戸時代に入ると、徳川家康が城跡に鷹狩用 の御殿を建てたが、それも時とともに廃れていったとされる。 なお、蕨宿の本陣問屋名主を務めた岡田家は、渋川氏家臣岡田佐渡守正信の子正吉に始まる とされる。 <手記> 蕨城は、中山道蕨宿の東、和楽備神社南面にあったとされています。当時は東西を沼と深田に 囲まれた微高地であったということです。 現在、蕨城址公園の一角に蕨城址碑と説明板が設置されています。この石碑は土塁跡の上に 建てられているものと思われ、土塁跡の北側には御殿池と呼ばれている水濠跡があります。 中山道の宿駅に面した蕨城は、渋川氏の居城として相応しい位置にあると思われますが、ここ から1.5kmほど南にある下戸田村の城跡を渋川氏の蕨城跡とする説も有力視されています。その 根拠は下戸田にある小字元蕨について、「今の蕨宿はここより移れり」と『新編武蔵国風土記稿』 にあることによります。ですが、いつごろ移ったのかについては定かではなく、確証とはいえません。 あるいは、渋川直頼・義行のころには下戸田の元蕨に居し、関東に下向した義鏡によって新たに 現在の蕨城が築かれたとも考えることができ、この点についてはなお不明といわざるを得ません。 |
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蕨城址碑。 | |
蕨城水濠跡の御殿池と土塁跡(右手)。 | |
御殿堀の石碑。 |