中村城(なかむら)
 別称  : 為松城
 分類  : 山城
 築城者: 為松氏
 遺構  : 曲輪跡、石塁、土塁、堀
 交通  : くろしお鉄道宿毛線中村駅よりバス
       「一条通」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           土豪の為松氏によって為松城が築かれたのが始まりとされているが、その経緯は
          詳らかでない。応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱を避けて、元関白一条教房が
          自領のある土佐国幡多荘に下向すると、土佐国人はこれを迎えいれた。中村に
          構えた教房は、為松・羽生・安並・土居氏らの国人を家老として取り立てた。一条氏
          が戦国大名化するなかで、為松城南東の支尾根に一条氏一門の西小路氏が守る
          東城が築かれ、中村の詰城として整備されていった。
           永禄十二年(1569)ないし元亀三年(1572)に筆頭家老の土居宗珊が長宗我部氏
          との内通を疑った一条兼定に殺害されると、為松若狭守・羽生道成・安並和泉守の
          三家老は共謀して、天正元年(1573)に兼定を強制的に隠居させた。家督は兼定の
          嫡男内政が継ぎ、長宗我部元親が後見人となった。すると、三家老の専断に不満を
          抱いた加久見左衛門ら一条家中の国人は、中村に攻め入って3氏を滅ぼした。だが、
          これがかえって長宗我部氏の介入を招き、元親は内政の保護を名目に中村に進駐し、
          内政は大津城へ移され、兼定は追放された。一連の争乱に際し、中村城で戦闘が
          あったかは定かでない。中村には元親の弟吉良親貞が入った。
           天正三年(1575)、兼定は妻の実家大友氏の援助を受けて土佐に上陸し、旧臣を
          集めて中村を襲った。親貞は中村を捨てて東の逢坂へ退避し、後詰を待った。3日後
          に元親の本隊が到着すると、一条勢は四万十川の西の栗本城に移り、迎撃の構え
          をとった。この四万十川の戦い(渡川の戦い)によって戦国大名一条氏は完全に滅亡
          した。
           親貞は翌天正四年(1576)に病没し、跡を子の親実が継いだ。同十五年(1587)に
          はじまる長宗我部検地の検地帳によれば、このとき為松城と東城は畑となっていて、
          為松城の北に「御城」と「今城」があったとされている。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで長宗我部氏が改易となると、新たに土佐国主
          となった山内一豊の弟康豊が中村城主となった。康豊の跡は次男政豊が継いだが、
          寛永六年(1629)に嗣子なくして没し、中村山内家は断絶した。中村城は、遅くとも
          このときに廃されたと思われる。
           政豊の兄で2代土佐藩主となった忠豊の次男忠直は、明暦二年(1656)に3万石
          を分知されて中村藩を興した。ただし、中村城は再興されなかったものと推測される。
          3代豊明は若年寄に昇進したものの、病気を理由に辞退して将軍綱吉の不興を買い、
          元禄二年(1689)に改易された。

       <手記>
           土佐の小京都こと土佐中村の市街背後は、小山が連なる丘陵地帯となっていて、
          その一部が城として利用されていたようです。広義の中村城は、前述の通り為松城・
          東城・御城の3つから成っていましたが、そのうち最北の御城は、宅地造成によって
          峰ごと削られてしまったようです。長宗我部氏時代にはこちらが主城だったということ
          なので、惜しい限りです。
           現在、残った城跡一帯は為松公園となっています。車道を登りきったところが堀切
          跡とされていて、その脇には石碑と石垣があります。この石垣は昭和40年(1965)
          に発見されたもので、山内康豊ないし政豊の時代のものと考えられています。中村
          城というと天守風の郷土資料館があることで知られていますが、これが建っている
          のは山頂の為松城本丸ではなく、1段下の二の丸跡とされている曲輪です。二の丸
          には立派な土塁が巡っていますが、資料館建設のためにかなりの改変がみられる
          ため、どこまでが城の遺構なのか判断しづらいところがあります。
           為松城本丸より北側は児童公園のようになっていて、数段の削平地が続いていた
          ように見えますが、これもどこまでが城のものかは分かりかねます。現在の北端は
          中の森と呼ばれる曲輪で、公園の池の脇に石碑があります。
           為松城から車道を下りると、東城があります。近世中村城では三の丸とされていた
          のか、東城と三の丸の2つの石碑が建っています。ここにも土塁の痕跡が見られる
          ほか、付け根には道路となっていますが堀切の跡も見受けられます。東城と二の丸
          の間には切岸や削平地も見られ、このあたりが中世城館の雰囲気がもっとも残って
          いるところといえるかもしれません。
           
 中村城模擬天守を望む。
石垣と城址碑。 
 模擬天守(郷土資料館)。
二の丸の土塁か。 
 為松城址碑。
為松城本丸跡。 
 本丸跡北側の段差。土塁跡か。
為松城本丸下段。 
 中の森跡の石碑。
東城跡。 
 東城土塁跡か。壇上の石碑には三の丸跡とあります。
東城付け根の堀切跡。 
 二の丸下の土塁と削平地。


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