鳥坂城(とりさか) | |
別称 : 高城、鶏坂城、鶏冠城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 城資盛か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口、井戸 | |
交通 : 上信越自動車道中郷ICから車で20分 | |
<沿革> 元越後守の城長茂が正治三年(1201)一月に京で幕府に反乱を起こすと(建仁の乱)、長茂の 甥・資盛と妹の板額御前も越後で挙兵した。『吾妻鏡』によれば、このとき資盛らは「城郭を越後 の国鳥坂に構」えたとされ、これが鳥坂城の初出とされる。「構う」という表現から新規の築城で あったとみられるが、越後国内には沼垂郡にも鳥坂城(読みは「とっさか」)があり、どちらを指す のかは確定をみていない。 幕府は佐々木盛綱らを討伐軍として派遣したが、とくに板額御前の奮戦目覚ましく、百発百中 の弓の腕前で幕府軍を手こずらせたといわれる。ついに信濃の御家人・藤沢清親の矢を受けて 捕虜となり、まもなく城も攻め落とされた。ちなみに、板額御前はその武勇を見初めた甲斐源氏 の浅利義遠が懇願して妻に貰い受けた。 現存する遺構は戦国時代後期のものと推定され、上杉(長尾)家臣・桃井左京が城主であった と伝えられるが、史料にはみられない。上杉家臣には天正六年(1578)の御館の乱で上杉景虎 に属して戦死した桃井伊豆守義孝がいるが、左京との関係は不明である。 <手記> 鳥坂城は標高約347m、比高約240mの山上に位置しています。左右に北国街道と信州飯山へ 抜ける富倉道を見下ろす要所でもあります。麓から登るとなるとかなり難儀ですが、ありがたい ことにすぐ裏手が高床山森林公園となっていて、駐車場も広々完備されていました。。 さらにさらに素晴らしいことには、地元の保存会が積極的に整備・管理を行っていて、進行形で 見学しやすくなっています。そのご尽力のほどは、城内あちこちにうず高く積まれた伐木の束から 容易に想像できるでしょう。草木を刈っているうちに、新しい遺構を発見することもあるようです。 主郭の背後に4条の堀切群を穿ったり、斜面には畝状竪堀群を施したりと、城は規模が大きく、 北北西にある鮫ヶ尾城などと共に春日山城南方の守りを担っていたことは想像に難くありません。 それでいて城の歴史がほとんど不明な点も鮫ヶ尾城と共通しています。他方で建仁の乱における 鳥坂城が2候補あるうちのどちらかなのかは私には判じかねますが、どちらであったにせよ、時代 を鑑みるに今日の意向との連続性はほぼないでしょう。 鳥坂城でもう1つ興味深いのが、主城域から少し離れた東郭です。城山の中腹支尾根に細長い 削平地が延び、その中途に堀切が1条横断しています。この堀は防御の面ではあまり役立つ感じ ではなく、直観的には堀底道を兼ねていたように見えるのですが、用途や全体像は不明です。 |
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北麓から鳥坂城跡を望む。 | |
最後端とみられる狼煙台跡。 | |
最後尾の堀切。 | |
南郭の土塁。 | |
南郭下段の石祠。 | |
南郭の横堀と土塁。 | |
南郭前方の堀切。 | |
本丸背後の四重堀切。 | |
堀切から続く土塁と竪堀。 | |
堀切下斜面の畝状竪堀群。 | |
本丸直背の堀切。 | |
本丸のようす。 | |
本丸からの眺望。 | |
本丸から二の丸を見下ろす。 | |
二ノ丸の虎口。 | |
二ノ丸前方の堀切。 | |
主郭部西側斜面の井戸跡。 | |
井戸跡脇の畝状竪堀群。 | |
主郭部前方の堀切。 | |
主郭部東側斜面の竪堀。 | |
東側斜面の屋敷跡とされる削平地。 | |
三ノ丸の竪堀兼虎口。 一番奥上は本丸跡。 |
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三ノ丸跡。 | |
四重堀切から続く竪堀を下から見上げる。 | |
同上。 | |
東郭の入口。廃車が目印。 ここから左手の藪に分け入ります。 |
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東郭のようす。 | |
東郭の堀切。 | |
同上。 |