種崎城(たねざき)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 長宗我部国親
 遺構  : なし
 交通  : 高知市街よりバス。
      「種崎公園前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           浦戸湾を挟んで対岸の浦戸城へ進出した本山氏に対抗するため、長宗我部国親によって
          築かれた。築城年代は不明だが、本山梅渓が浦戸城や長浜城を整備したとされる天文年間
          (1532〜55)のうち、種崎の東の池城主池頼定が国親に降った天文十六年(1547)ごろ以降
          であると思われる。
           永禄三年(1560)、兵糧を積んで種崎城へ向かった長宗我部氏の船が、本山氏側の潮江城
          の兵に襲われたことから、両氏の関係は悪化した。同年五月二十六日、国親勢は種崎城から
          浦戸湾を渡り、長浜城に夜襲をかけた。奇襲に成功した長宗我部軍と、兵を整えて巻き返しを
          図る本山軍の間で、翌二十七日に長浜戸の本の戦いが勃発した。国親の子元親の初陣でも
          あったこの戦いでは長宗我部軍が勝利し、梅渓の子茂辰は浦戸城へ逃げ込んだ。国親は、陸
          には柵を設け、海には船を並べて城を包囲した。たちまち城中の兵糧は窮乏したが、国親は
          やおら囲みを解いて種崎城へ引き上げた。
           体調の悪化した国親は、種崎城に江村親家を、浦戸城に次男親貞を置いて、自身は居城の
          岡豊城へ戻った。国親はそのまま岡豊城で亡くなり、跡を元親が継いだ。種崎城のその後は
          不明だが、本山氏との戦いが決着を見るころには廃城になっていたものと思われる。
           元親は、天正十七年(1589)から浦戸城への居城移転の工事を開始し、天正十九年(1591)
          に同城へ移った。浦戸の対岸にある種崎にも、このとき町屋敷37軒を含む166軒の城下集落が
          建設された。種崎城址も、この浦戸城下町に何らかの形で飲み込まれたものと推測される。


       <手記>
           種崎城は、対岸の浦戸城址と同じく浦戸湾に突き出た半島の先端にあった城です。現在は
          種崎千松公園となっていて、城跡の面影はありません。
           浦戸城や長浜城と比べても、要害性は余り認められず、長宗我部氏の対本山氏の前線駐屯
          基地という以上の意味はなかったものと思われます。

           


種崎城址(種崎千松公園。向こうの丘は浦戸城址)。


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