作山城(つくりやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 香西佳清 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR予讃線香西駅徒歩20分 | |
<沿革> 在地の大身領主香西佳清が、居城を佐料城および勝賀城から藤尾城に移した際に、 支城として築かれたといわれる。藤尾城は天正三年(1575)に、築城が始まり、同五年 (1577)に未完成のまま佳清が移り住んだとされるため、作山城の完成もそれよりは後と 推測される。なお『探訪ブックス 四国の城』によれば、作山城の名は古墳の上に作った ことに由来するとされる。 天正六年(1578)、盲目であった佳清よりその弟千虎丸の家督相続を望む香西清長・ 清正父子が、佳清派の新居資教と植松資正を殺害した。このとき阿波にあった資正の 子の往正・資久兄弟は、急いで取って返して清長父子の籠る作山城を囲んだ。佳清派 の優位が決すると、清長父子は備前に落ち延びた。 天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親が次男の香川親和を大将とする香西氏攻め の軍勢を送り込んだ。香西勢は「伊勢馬場の戦い」や「西光寺表・天神郭の戦い」などで 激しく抵抗するも、5日間の攻防戦の末に落城寸前まで追い込まれた。西光寺表および 天神郭は藤尾城南東麓にあたるため、作山城も陥落したものと推測される。このとき、 親和の養父香川之景が仲裁に入り、香西氏は長宗我部氏に臣従することとなった。 天正十三年(1585)に羽柴秀吉が四国を平定すると、香西氏は所領を失った。作山城 もこのときに廃されたものとみられる。 <手記> 上の地図に示した道路沿いに、作山城旧跡の標柱が建っています。古墳があったか は分かりませんが、薬師山から細く伸びる尾根の先端に位置していたようで、今日では 地形ごと消滅してしまっています。 |
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作山城旧跡標柱 |