臼杵城(うすき) | |
別称 : 丹生島城、亀城、竈城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大友宗麟 | |
遺構 : 櫓、石垣、堀 | |
交通 : JR日豊本線臼杵駅徒歩10分 | |
<沿革> 永禄五年(1562)に大友義鎮によって築城が開始され、翌年に完成したとされる。築城に 際して、義鎮は将軍足利義輝に許可を仰いだともいわれる。築城がはじまった永禄五年、 義鎮は出家して宗麟と号している。臼杵築城の目的は表向きは宗麟の隠居城であったが、 実際には毛利氏の侵攻に備えた要害城であった。それまでの大友氏の詰城は高崎山城 であったが、宗麟はより海防を重視し、臼杵川河口の浜辺からわずかに切り離された孤島 である丹生島に目を付けたものと考えられる。その後、時期は不明だが天正四年(1576) に嫡男義統に家督を譲るまでの間に、宗麟は大友氏館を嫡男義統に任せて丹生島城へ 移った。 天正十四年(1586)十二月十二日の戸次川の戦いで大友・豊臣連合軍が島津軍に大敗 すると、島津勢は翌日には義統・宗麟のいる府内・臼杵をそれぞれ攻撃した。義統は府内 を棄てて逃亡したが、宗麟は籠城戦の構えをみせた。島津軍は臼杵川沿いの平清水に陣 を布いて攻城を開始したが、宗麟はポルトガルから輸入した「国崩し」と呼ばれるフランキ砲 (大砲)を撃ち放って島津方の兵を怯ませ、なんとかわずかな兵で城を死守した。翌十五年 春に、宗麟がかねてより嘆願していた豊臣秀吉の九州平定軍が大坂を発つと、島津軍は 攻城を諦めて撤兵した。戦後、宗麟は津久見に隠棲し、同年中に死去した。 文禄二年(1593)、豊後一国を安堵されていた大友吉統(義統から改名)は、文禄の役で の失態を理由に改易された。翌三年(1594)、福原直高(長堯)が6万石で臼杵城に入った が、この間の城主については不明である。直高は慶長二年(1597)に府内12万石へ加増 転封となり、代わって太田一吉が臼杵6万石に入封した。直高も一吉も、それ以前と比べる と臼杵を舞台に大きく禄高を増やしているが、2人が石田三成と懇意な関係にあった(直高 については妻が三成の妹)からといわれる。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、太田家は西軍に与し、一吉は病を理由に臼杵城に 留まり、嫡男の一成を出陣させた。同じ豊後の岡城主中川秀成は当初西軍に属していた が、本戦での西軍敗北の報を受けると東軍に寝返って臼杵城を攻撃した。太田勢はこれを 撃退し、佐賀関で決戦に臨んだ(佐賀関の戦い)。秀成にとっては東軍としてのはたらきを 見せる最初で最後のチャンスであったため、戦いは死に物狂いの激闘となった。中川勢は 家老や重臣の多くを失う損害を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、もともと すでに本戦の決着はついていたので、一吉はこれ以上の抵抗は無用と開城・降伏した。 戦後、稲葉貞通が郡上八幡から5万石で臼杵に入った。稲葉氏により、臼杵城は大規模 な改修を受けた。とくに、城のある島と陸地の間に砂州を利用した三の丸を築き、それまで の唯一の登城口(大手口)を北に移し、新大手を今橋口、旧大手を古橋口とした。5代藩主 景通は、それまで東端の本丸にあった藩主邸を、島の中央の二の丸(西の丸)に移した。 臼杵藩稲葉家は、15代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 臼杵城は、前述の通り、臼杵川河口に浮かぶ断崖の孤島丹生島を利用した城です。とは いっても、現在では周囲はすっかり埋め立てられているので、かつての島城の面影はみられ ません。ただ、城の周囲の岸壁には海岸性特有の浸食痕がみられるので、それが唯一の 島城のよすがといえます。 城跡には、二の丸下の畳櫓と本丸下の卯寅口門脇櫓の2基の二重櫓が現存しています。 このほか、近年二の丸大門櫓と畳櫓の続塀が復元されました。また、二の丸には大友宗麟 が使用したフランキ砲のレプリカが置かれています。城内の大部分の石垣はよく保存されて いるのですが、なぜか本丸の石垣だけだいぶ剥げてしまっています。とくに天守台は、島原 の乱の後に城破りを受けたかのように零れてしまっています。この天守台には、三層の天守 が載っていたとされています。『臼杵博識誌』には、天正四年に宗麟が初めて天守を築いた とあるそうでうですが、発掘調査の結果、天守台が築かれたのは福原氏以降であることが 明らかとなったそうです。 私の見たところ、むしろ大友氏時代には石垣すらほとんど築かれていなかったのではない かと思われます。現地の説明板によれば、臼杵城では本丸が二の丸より低い位置にあり、 大友氏時代には二の丸が本丸だったのではないかという推測があるそうです。私はこれは 炯眼だと思いました。臼杵城の縄張りをみると、大門櫓前から、二の丸の西→北→東へと 大きく迂回する細長い帯曲輪があり、本丸下の空堀へ繋がっています。しかし、この帯曲輪 は今橋からの登城口にある二の丸上の門によって分断されています。ここで、大友氏時代 には石垣がほとんどなかったとする私の推測に立って、この上の門石垣を取り除いて考えて みると、旧大手の古橋から螺旋状に、現在の本丸を経て二の丸へ至る構造が浮かび上がり ます。今後、ぜひとも検証していただきたい面白い説であるといえます。 余談ですが、臼杵はふぐが名産です。城下を一通り見て回ったのですが、私にはとうてい 賞味できるお値段ではなかったので、ひれ酒用のふぐひれを大人買いして我慢しました(笑)。 |
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古橋口から城を見上げる。 | |
畳櫓。 | |
大門櫓。 | |
二の丸会所櫓跡。 | |
卯寅口門脇櫓。 | |
本丸の空堀。 | |
同上。中央奥が天守台。 | |
天守台。 |
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天守台石垣。 | |
上の門跡。 |
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今橋口から城を見上げる。 | |
おまけ:三の丸跡に位置する明治期建造の稲葉家邸。 |